フレデリック・ショパン、フレデリックの信念、ショパンを最後に助けたのは誰だ…。母ユスティナからの最後の愛とは…。

シャイヨ城の前のショパン🎶イメージ🎶
ロンドンで病床のショパンを毎日のように見舞っていたマルツェリーナ・チャルトリスカ王女はドイツのヴュルツブルクを旅行中だった。(マルツェリーナ・ツァルトリスカ王女、3月30日コンテンツ記事)
彼女は、パリに戻ったショパンを心配し、
ヴュルツブルクから、アダム・イェジ・チャルトリスキの息子のヴワディスワフ・チャルトリスキへ宛て書簡を送っていた。
「 あなたはキセリョワ夫人に(ロシア大使夫人) に会いに行ってください。
私はある方にワルシャワに手紙を書いてもらい、ショパンの姉と義理の兄のためのパスポートを申請してもらうよう頼んであります。
あなたは夫人にどうなっているのかをお尋ねして、満足のいく答えが得られるまで言及しないようにしてキセリョワ夫人に請求してください。
かわいそうなショパンをこの問題で苦しめたくはないのです。
ショパンの住所がわからないので書簡を同封します。」
病気だというのに夏になる前に行き場のないショパンをマルツェリーナ夫人は心配して、ワルシャワから姉ルドヴィカ夫妻をパリに呼び寄せるための手配を影ながら尽力していた。
マルツェリーナ夫人は既にショパンはオブレスコフ夫人の手配でパリの郊外にあるシャイヨ城に移されていたことをまだ知らなかった。
オブレスコフ夫人はお金のないショパンを気遣いショパンには家賃を半額に告げ、ショパンには内緒で残りの金額を支払っていた。
夏の間の行き場に困っていたショパンは、
これで少しは生きながらえたのだった。
シャイヨ城から馬車で凡そ10分ほどでブローニュの森だ、ショパンは時折出かけて自然に触れ徐々に回復したかに見えていた。
フレデリックは前のアパルトマンでは、
次から次へと政治的な助言を持って来る20人もの訪問客が入れ替わり立ち替わり来るため、ショパンは、落ち着くことができなかったのだ。だから、そこから一時でも離れたショパンは、前よりは気分が良くなっていた。そして、
フレデリックはワルシャワの母ユスティナの名の日を忘れてはいなかった。
母ユスティナへ、フレデリックはお祝いの書簡をシャイヨ城から書いて送った(現存せず)。その返事が母ユスティナからフレデリックに届いた…
「私は今月のi6日にあなたの書簡を受け取りました。
あなたの健康が改善されたことは、私にとって本当の聖名祝日の贈り物でした。
おぉ、私があなたと一緒にいて、私が以前のようにあなたの世話をすることができたらいどんなにいいのにと思います!
しかし、それは叶わないのです、私たちは全能者の意志に従うしかないのです。
そして彼は彼の憐れみの中で私の代わりにあなたに友達を送ってくれます。
おまえは、その友を信頼し彼を恐れることはありません。
私の最愛の人、私はおまえが幾らかのお金が出来ていることを期待しています。
私はたった今お金があるので、とりあえずですが、出来る限りですか、おまえに2,000フランを送ります。そして私たちの善良なバルティンスキはおまえがポーランドからのお金を受け取る方法を説明してくれます。
これからは、おまえが困らないように、
神様がおまえを祝福し、おまえに健康を与えてくださいますように、そして、
この祈りが神様に届きますように。
おまえを愛する母親より」
ショパンはワルシャワを出てから19年間、働いても働いても自分の財産というものを持つことがとうとう出来なかった。それは、ショパンが遊んでいて浪費家だったからではないのだ。
なぜか、それは、サンド一家に貢がなければならなかったお金とサンド一家への高価な贈り物、サンドの息子からのたかり、そして、
ソランジュへの支援、度重なる社交界の招待への贈り物やお土産。そして貴族に見劣りしない出立ちと四頭立ての馬車や使用人、ピアノが弾ける家賃の高いアパルトマン、毎回のように買い替えさせられるピアノ、手切れ金としてマリアに贈ったプレエルピアノ、ロンドンでも結局は儲けたのはスターリング姉妹でショパンは家賃すら満足に払えなかった…だから、スターリング姉妹がショパンに今更、お金を支援と偽善者顔してもショパンにはお笑い種なのだ。スターリング嬢のピアノもショパンが買ったようなものだからだ…。
出版社との戦いもショパンは、命を削り書き上げても、全く儲かるどころか割が合わないことばかりだった。作曲家の地位はベートーヴェンが貧乏で死んだように、ショパンの時も実は何ら変わりなく、貧乏で低い地位に扱われていた。
それでも、家柄がメンデルスゾーンのような金持ちは、金の力で曲を貧乏な作曲家ショパンから巻き上げ、社交界で立派な音楽家と見られていた。そのメンデルスゾーンでさえ、
愛人と噂されていたリンドに貢いだが裏切られ、ロンドンで夜の社交界で寝る暇もなく毎晩のように演奏させられ精神を病み亡くなったのだ。
ショパンはオペラの曲も身売りして生きて来たも同然だったが、もう作曲も出来なくなり、体力も尽きたショパンは売るものがないのだ。ショパンへの最後の助け舟は、母ユスティナからの2000フラン(凡そ150万円)だった。このお金からフランショームに借金していた500フランを返済したショパンだが、まだ他にも借金は残っていた…。
パリの16区 
フランスの首都
パリ市を構成する20の行政区のひとつ。
第16区、パリ16区。
市の西部に位置、ブローニュの森を含む。南北に蛇行するセーヌ川に挟まれた区域で、
区の東西でセーヌ川に接する。
現在はパリで最も多くの大使館や領事館がある地区。パリの郊外。歴史は長い間農村地区だった。歴史的建造物はほとんど残っていない。数百ヘクタールのブローニュの森は首都で最も緑豊かな場所である。
地域共同体総則では「パッシーの領土」と名付けられている。
19世紀頃
パッシーの城19世紀
シャイヨ城19世紀頃
✳︎ショパンは1849年5月から8月中旬まで
シャイヨ城で療養していた。

*パッシーの歴史では、
ジャンリス夫人、オルレアン公爵フィリップ、エガリテの子供たちの総督などや、
ジャン=ジャック・ルソー
プッチーニ、ロッシーニ、
銀行家のベンジャミン・デレッサートなどが住んでいた。
シャイヨの丘であるブローニュの森に建造施設が集まり村ができたのは600年頃始まった。
1109年まで はノーマン修道院の村だった。
1672年以降はパッシーの教区が創設され、そ別荘の建設が始まり、その人口は1800年からは1,000人から、パリ併合の1860年には8,000人に増加した。
エッフェル塔から眺めたシャイヨ広場とトロカデロ庭園 現在
ソフィア・キセリョワ
ポール・キセレフ伯爵の3番目の妻
国籍 
ポーランド
語ロシア語
ソフィア・ポトッカ(1801 – 1875年1月2日 聞く))、スタニスワフ・シュチェスニー・ポトッキとソフィア・クラヴォーネの娘、1821年にパベル・キセレフ将軍 と結婚。彼らには2歳で亡くなった息子ウラジミール(1822年-1824年)がいた。
✳︎1849年マルツェリーナ・ツァルトリスカ王女は、ショパンのポーランドの家族がパリに来れるようにソフィアに嘆願書をだした。ソフィアは、恐らく、1月頃に受け取っていたはずだが、彼女は、早急に対処しなかった。5月になり、マルツェリーナがドイツから再度、ヴワディスワフ・チャルトリスキを通じて嘆願したことで、ようやく、ソフィアは、ショパンの姉ルドヴィカの家族が、パリで病床のショパンに会えるようにと、出国許可のパスポートを発行の手配を夫のポール・キセレフ伯爵に働きかけた。
ポール・キセレフ伯爵、彼はモスクワで生まれ1788年1月19日 にパリで亡くなった。1872年11月 26日は、 1829年から1834年にかけてルーマニア公国の総督の職務を果たした、当時の大臣であり、最終的にはロシア帝国の外交官だった。
国籍 ロシア
忠誠 ロシア
活動 外交官、政治家、兵士
✳︎ショパンの姉ルドヴィカの家族がポーランドからパリへ来るための出国許可をした。
母ユスティナには許可を出さなかった。
ヴワディスワフ・チャルトリスキ1828年7月3日 - 1894年6月23日)
チャルトリスキ美術館の創設者。
彼は、ロシア帝国外務大臣、そして11月蜂起で国民政府首班を務めたアダム・イェジ・チャルトリスキ公の息子として生れた。一家は11月蜂起の失敗後、フランスに亡命。ヴワディスワフは1855年、パリ近郊のマルメゾン城でビスタ・アレグレ伯爵夫人マリア・アンパロ・ムーニョスと結婚した。
ヴワディスワフは1872年、ヌムール公の娘で、フランス王ルイ・フィリップの孫娘の1人マルグリット・ドルレアンと再婚した。
ヴワディスワフはオテル・ランベールで政治活動を展開した。
ヴワディスワフは収集家であった。
彼は、パリの歴史文学協会の会長、ポズナン科学友の会の名誉会員を務め、父の死後のオテル・ランベールの指導者になった。
✳︎1849年5月マルツェリーナ・ツァルトリスカ王女からの頼みで、彼はソフィア・キセリョワ伯爵夫人に会い、ショパンの姉ルドヴィカの家族がパリで病床のショパンと最後の再会が出来るように、出国許可のパスポートを早急に手配するように頼んだ。
彼はオテル・ランベールの難民支援活動でショパンと親交があった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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