フレデリック・ショパン、ブローニュの森で身体を休めたショパン…ショパンのために歌ったリンド嬢、そして憎んでいたはずのプレイエルは…ドラクロアに会いたいショパン…医師に逆に助言したショパンとは…

19世紀ブローニュの森とショパン
🎶イメージ🎶
ショパンはシャイヨ城に移され、母ユスティナの支援で少しは元気を取り戻していた。
気分のいい日には、ブローニュの森まで森林浴に馬車で出かけていた。
そして信仰深いショパンはブローニュにある教会へも密かに立ち寄ったかもしれない。
作曲はほとんどしなくなってしまったショパンだが、グシマーワへは何があっても忘れずに書簡を書いていた。
「お元気ですか?田舎にいることは、少なくとも身体に良いことです。私自身は、時々ブローニュの森に行く以外、外出外することがなくなりました。
私は前より強くなったと感じています。
薬を飲むのをやめたからです。
喘ぎ声や咳はいつも通りですが、より我慢できるようになりました。
私はまだ演奏は出来ませんし、作曲もできません。私がこれから何を食べて生きていかなければならないかは、神のみぞ知る、です。」
ショパンに足りないのはよくわからぬ怪しい薬ではなく、自然に触れることと家族の愛情だったようだ…。
そして、ショパンにとっては、母ユスティナからの便りが一番大きかった。
ショパンは身体に合わない薬に頼ることを断ち自然治癒力を高めて健康を取り戻そうとしていた。
それから、ショパンはパリの最近の様子は、
人口が減っているとグシマーワに続いて書いた。
「多くの人が町を出て行きます。ある者はコレラを恐れて ある者は革命を恐れて . . .」
 環境と病気と治安の悪いパリから離れる
人が多い…
「カルクブレンナーは死んだ(コレラで)。ドラロッシュの長男がヴェルサイユで死亡した。フランショームの優秀な使用人が死亡した。オルレアン広場では死者は出ていないが、エチエンヌ夫人の幼い男の子が
危険な状態だそうです。」ショパンをあれほどまでに苦しめ、ショパンもショパンの亡き父ニコラまでもがカルクブレンナーを憎んだ日があたった、そのカルクブレンナーがあの世へ召された。
ショパンは特に何の感情もなく淡々とグシマーワに一言告げた。
パリでは、このようにいいニュースは聞こえて来ないのですよ、と、グシマーワに報告した。その他パリの様子をショパンはいつものように詳しく伝えた…
 「スコットランドの女性たちが到着した 。
ノアイユ公爵が回復されたとのことですが、私はシャルル・アルベール王がリスボンで亡くなられたと答えました。
彼女たちはとてもめんどくさい、私が窒息してしまいそうです。」
ロンドンからパリまでショパンを追って来ているスターリング姉妹のことは、ショパンにはロンドンだろうがパリであろが煩わしく
厄介なことは変わらなかった。
「今月末にはこの城を出て、広場に戻るつもりです。
コシェが戻ってきたのです。」
ショパンはパリから田舎へ逃げていた召使いが前のアパルトマンに戻って来たから、城を出てアパルトマンに戻ることにした。
シャイヨ城の家賃の半分をオブレスコフ夫人が支払っていることに気がついたのかもしれない…。
「フレンケル医師は、私がどこかの温泉に行くべきか、南仏に行くべきか、彼から聞き出すことができないのだが、彼はまたしても薬草注入の処方を止め、新しい薬を出してきたが、私は断固として拒否しています。
衛生面ではどうしたらいいかとフレンケル医師に聞くと、彼は(そんなことは必要ないし、規則正しい生活は必要ない)と言うありさまだ。」
当時の治療法は薬事の本が読めれば医師になれる程度だった。
ローマ時代の古い治療を行う医師がいることを、ショパンは疑わしく思っていた。
「冗談はさておき、フレンケル医師はコレラ同様、相談役としては非常に優秀なのだろうが、彼は継続的な治療はできないのだ」
ショパンは5人目であろか、医師をまた変えたがあまり信用できないとグシマーワに嘆いていた。
 そして、シャイヨ城に滞在中にショパンの見舞いに訪れたのは、
歌手のリンド嬢、そして、ポトツカ夫人、ドゥ・ボーヴォー夫人、ロスチャイルド夫人が来た。
「リンド嬢がここに来てくれました。ある晩、ポトツカ夫人、ドゥ・ボーヴォー夫人、ロスチャイルド夫人も来ていた時に、リンド嬢は私のために歌ってくれました。
その後、彼女はハンブルグ経由でスウェーデンに旅立ちました。
それから、カタラン・アンジェリカ夫人! [出発の前日にここで会ったのだが、彼女はコレラで亡くなりました。
チチョフスキーには一度だけ会ったことがあると言ったでしょう。町まで遠いので、フランショームや、チャルトリスキーなど、私に愛着のある人が時々訪ねてくるだけです。」
自分を思ってくれる人は誰か、ショパンは
数知れない貴族の人々と知り合ったが、
結果、来てくれるのは、これらの古くからの友人なのだと身に染みていた。
「今日はプレイエルが来てくれたが、あまりにも親切な人だった。」
あれほど憎んだ日もあったプレイエルが病床のショパンに親切になっていた。プレイエルは何か今までのことをショパンに謝り、ショパンを励ましたのか…
「グートマンは、あれほど献身的だったのに、もう10日も来ていない。私は彼が病気ではないかと心配し始めたのですが、彼は大丈夫だと書いてきました。」
ショパンの弟子で親友のグートマンはショパンに献身的だったはずだが最近は来ないのは、なぜか、今までのショパンならば、
『あいつは薄情な奴だ!なぜ来ないのだ!あれほど可愛がってやったのに!』などと怒りを爆発しかねないのだが、ショパンにはもうそんな元気はなかった…
来れないのはあいつは具合が悪くないだろうか、大丈夫だろうか、何か事情があるに違いない、とグートマンを信じたショパンだった。すると不思議なことに、グートマンからショパンへお見舞いと励ましの書簡がショパンに届いた。
ショパンは母ユスティナが言っていた通りだと思った。
ショパンが大好きなドラクロワはというと、「田舎へ行きもう一週間も経つ」
ドラクロアに会いたいショパンには1週間がとてもとても長く感じるのだ。
それから、
グシマーワにパリの様子を更に書き加えた。
「疫病(コレラ)は、街では沈静化しつつあります。」ショパンはパリの街の明るい報告をし、グシマーワにそろそろパリに出で来て私に会いに来てほしいと思っていた。
ショパンは、気持ちが待ち切れないのだ…その4日後、グシマーワに、
書簡が届いたか、何故か不安になったショパンだった。フランショームか誰かに聞いたのかもしれない。グシマーワに再度、書簡を書いたショパンだった。
 「…割愛…私は前よりはよくなりましたが、サピエハ王女が私のところに来たのはそのためです。」サピエハ王女がショパンを見舞いに来た。
 「……私の夜勤看護婦(ポーランド人女性)がそのことを彼女に話したからです。」
夜勤看護婦はショパンが苦しむ様子が怖くなりサピエハ王女を至急呼び寄せたことがあったのだ。
「私のユダヤ人フレンケル医師は一週間も来なかった、彼はついにリトマス紙で尿を検査することもせず、ただ自分がコレラから救ったイギリス人のことを自慢げにしゃべるだけだった。」ショパンはグシマーワに不安だと話した。
医師はなんとショパンの治療に来たのではなく、自分が救ったコレラ患者の話しばかりをショパンに話したのだ。
「反動的なフランス政府(すなわちフォシェのこと)[内務大臣]が薬を輸入しなかったのだ。だから私は、彼にその薬を輸入するよう依頼したのだ。おそらく、任せておけば、この混乱から早く抜け出せるだろう。...」
ショパンはパリの街が混乱から抜けだせるように、と、6人目になるユダヤ人医師に逆に知恵を貸し助言したのだった…。ショパンはそういう星の元に生まれたひとなのだ…。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです