フレデリック・ショパン、ポトツカ夫人のショパンへの愛とは…ニースへいきましょう、10月に再会いたしましょう…そして、ショパンへの恩返しに姉ルドヴィカを呼び寄せる働きかけをする人々…

ポトツカ夫人の写真とショパンの写真から
🎶イメージ🎶
ショパンは、また別の医師に付いていた、6人目の藪医者なのか…グシマーワに報告した「…私はクルヴェイエ医師の助言を求めたが、彼は何も処方せず、ただ黙って静かにしているようにと言った。
ホメオパシーの治療が私に良い結果をもたらしたとすれば、それはモリン博士の頃のことだ。
ホメオパシー治療が私に良い影響を与えたとすれば、それはモリン博士が私に薬を与えすぎず、多くのことを自然に任せたからだ、と、彼は私に言っていた。
しかし、彼は私を結核と診断しているようだ。
というのも、彼は小さじ一杯の地衣類(こけ)を含んだものを処方してくれたからだ。
[彼は1人か2人の友人の例を紹介している]」
 ショパンは昔、妹エミリアを結核で亡くしている…。
しかし、もう一人の妹イザベラと姉さんルドヴィカ、そして母も元気だ。亡くなった父ニコラも結核ではなかった。家族の中でショパンだけがエミリアか結核が移っていたとは考えにくいが、ショパンは結核かもしれないと、6人目の医師にして診断された。
「. . . ポトツカ夫人は今、ベルサイユにいます 。ベルギーの温泉地へ行かれるそうです。
こちらはとても暑いです。姉からの返事はまだわからないのです。私は今月いっぱいはここに滞在するつもりです。
もし姉が来なければオルレアンへ帰ります。
ここのすべてがあまりにも高価だと感じています。私はますます演奏しなくなりました。
曲も書けません。あなたはお元気で、パンフレットの仕事に取り掛かってください。
あなたは不幸や悩みに屈しないでください。あなたはすでに多くのことを耐えてきたのです。
神は、これから起こることに対しても、あなたに力を与えてくださるでしょう。」
ショパンは姉に汚いオルレアンのアパルトマンは見せたくなかった。しかし、シャイヨ城は家賃が高すぎるのだ。姉が来ないのなら、
自分はオルレアンのアパルトマンで我慢しようと思っていた。そして、
ショパンはワルシャワ時代からの仲間だったポトツカ夫人がシャイヨのショパンをリンド嬢と見舞いに来てくれてから1か月程経過した。ポトツカ夫人はベルサイユに滞在した後、ドイツを旅していた。ポトツカ夫人の滞在先ドイツからショパンに書簡が届いた。
「長い書簡であなたにご迷惑をおかけしたくありませんが、あなたの健康状態や将来の計画について、私は知らないままではいられません。
あなたは書簡を自分で書かずに、エティエンヌ夫人か、カツレツの夢を見ることが好きな親切な老女に頼んで、
あなたの体力、胸、窒息発作などの状態を私に教えてください。
あなたの冬のニース行きを考えましょう。」
ポトツカ夫人はショパンに書簡は誰かに代筆させておき、私たちはニースへ逃げることを考えましょう、とショパンに提案した。
「オーギュスティーヌ・ポトツカ女史は私の書簡への返信で、アンデル・セジェヴィッチ女史(ルイーズ・ジェンドルセジェヴィッチ)の許可証を得るためにあらゆる努力をするが、あの不幸な国では非常に困難である、と述べております。」
オーギュスティーヌ・ポトツカ女史(ソフィア・ポトッカ1801 – 1875年1月2日 )がルドヴィカ(ルイーズ)のパリの入国許可の鍵を握っているから、もう少し待つようにと、ショパンにデルフィーネ・ポトツカ夫人は伝えた。ルドヴィカは夫妻と一人の子供の3人は出国許可が下りたが、パリの入国許可がなかなか下りなかったのだ。
「あの不幸な国で あなたが病気で落ち込んでいるときに一人で取り残されていると思うと悲しくなります。エクス・ジャ・シャペル宛てに数行の手紙を送ってください。」ポトツカ夫人はパリに滞在した後、ベルギーの温泉地へ行き、それからドイツへ旅していた。
ショパンに書簡は誰かに代筆させて、その書簡はドイツのポトツカ夫人の滞在先へ送るようにという指示をショパンにした。
ポトツカ夫人はショパンに書簡に書いてくる内容を指定した…それは、「あのユダヤ人のフレンケル博士が姿を見せたかどうかを書いてきてください。そして彼があなたに何か良い影響を与えたかどうかをお書きください。」
ポトツカ夫人は、藪医者かどうなのか、証拠となる情報が欲しかった。
そうショパンに書いてから、「ここは悲しく退屈なところですが、私にとってはどこにいても人生は単調に流れていきます。」パリは悲しく退屈だと書いた、それは、ポトツカ夫人は、ショパンと同じ気持ちだという意味
なのだ。
そして「私がもう経験しなければならないことを考えるとき、
これ以上の苦しみや試練がなく、人生が過ぎてくれれば十分なのです。」ポトツカ夫人は、二人の子供を亡くしていた、そして1843年に元夫の名前と年金を獲得して離婚していた。11月蜂起の時に母とパリに逃れて来た経緯があった。その人生の苦労に疲れ果てたとポトツカ夫人はショパンに吐露した。しかし、これはショパンからの書簡を受けてのポトツカ夫人のショパンの言葉への返事なのだ、だから、二人は同じ気持ちなのだ。
「この世界では、なぜか人生も私に微笑んでくれない。私がこれまで幸福を願った人は皆、私に恩返しをしてくれました。しかし、
恩を仇で返されたり、様々な苦難に見舞われたりすることもありました。要するに、人生というものは、一つの大きな不和なものなのなのです。
親愛なるショパン様、神様はあなたを守ってくださいます。遅くとも10月の初めには、
あなたにお会いしたいと私は考えております。」
 残されたポトツカ夫人の書簡は唯一これだけだが、ポトツカ夫人の優しい人柄やショパンとの親密度が伺える。ショパンはポトツカ夫人の勧めるニース行きをどう思ったかは書簡が残されておらず不明だが、ショパンが
ポトツカ夫人の優しさに触れ励まされたことは間違えなかった…。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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