フレデリック・ショパン、ショパンのパトロンだったレオは逃げたのか…、歌手ポーリヌは親友ではなかったのか…聖人ショパンを看取ったグシマーワ…

グシマーワとショパン🎶イメージ🎶
ショパンの親友グシマーワは、ショパンが亡くなる前にパリに駆けつけ、ショパンと再会することが間に合った。ショパンの親友だったフォンタナが居なくなってからは、ショパンはグシマーワだけが頼りだった。グシマーワを信じて自分のことを、常に報告していたショパン。そのグシマーワは、ショパンが亡くなった後、ショパンのパトロンだった銀行家のレオに宛てて書いた書簡は、ショパンが亡くなるまでの経緯などだった。
レオは何処へ行ったのか、パリでショパンが苦しんでいる頃、レオは環境の悪いパリから何処かの田舎へ逃れていたのか。ショパンは恐らくグシマーワに自分が亡くなったら、グシマーワからレオにこのように伝えてほしいと頼んであったに違いない…ショパンはそういう性格だから…だから、ある意味これは、
グシマーワが書いているが、ショパンの遺言でもあるのだ。
「このようにあなたへご挨拶できることは私にとって大きな慰めです。
今、私の心は絶望と哀悼によって壊れています。
あなたは心から私とその気持ちを分かち合うことでしょう。
今、私たちのショパンはもうこの世にいないのです。
彼が後に私たちに残した隙間は、私たちの友情の絆を強固なものとすることでしょう。
なぜなら私たちは彼を一生忘れられないからです。
私たちは彼の損失を後悔するのをやめることはありません。」
レオに君はパトロンだというのに見舞いにも葬儀にも来なかった、だから、ショパンのことは恐らく君は一生悔やむことになる、と
ショパンが言いたいことをグシマーワが書いている。続けて、「私はすでにいくつかの詩を書いてみました。」
残念ながらこの詩は不明だが、ショパンを
讃える詩であると推測される。
「あなたに私がショパンの病気ことを話さなければならないところまで来た時、私は、ペンが手から落ちました。」この表現はショパンがグシマーワに書いたことがある、まるでショパンの言葉そのままである。
「私は紙に書き留めるのが怖かった。
私をむさぼり食う恐怖、そうすることで彼らがもっと現実化してしまうのではないかという恐怖です。あなたがパリにいなくなってから彼はいくつかのホメオパシーの医者に治療をされました。
古典的治療の連中だが、成功はしていない。ロス医師、サイモン医師
オルデンドルフ、ワルシャワのフラエンケル,ルイ、ブクシュ、クルベエル、
そして他の多くの人々が出来る限りのことをしました。しかし、彼の病気は消えず、
患者はとても衰弱していて助からなかった。
 彼は夏のためにシャイヨに引っ越していました。素晴らしい景色と太陽は彼を元気づけることはできなかったし、苦しみから心をそらすことさえできなかった。」
全て、ショパンがグシマーワに書いてきたことがそのまま書かれているが、シャイヨは贅沢な城だがショパンの慰めにもならなかったというところが、ショパンが最後に暴露したかった部分である。
  「そんな彼の勇気を回復させたのは、たった一つの大きな慰めだった。
それは、愛するルドヴィカが、渡航許可を得るのに困難な状況にもかかわらず、遠い北の地からやってきたことだ。
彼女は母親と夫と子供たちを残して、貧しい弟の看護をした。
数日間、弟は目に見えて変わりました。
しかし、それは彼の人生の最後の微笑みであった。」
ルドヴィカとの再会の後、確かにショパンは
回復しているかのようであった。しかし、
「その瞬間から、命はゆっくりと引き離され、彼の元から逃げていった。水腫の症状が現れ当初からこの病気は、科学のあらゆる努力に抵抗した。しかし、患者にはまだ十分な希望が残されており、再度の引越しに耐えることができた。
そして、患者はヴァンドーム広場に素敵なアパルトマンを構えることができた。
ロシア大使館のあったヴァンドーム広場に魅力的なアパルトマンを構え、彼は仕事を再開しようとさえしていた。
彼の脳裏には音楽が渦巻いていた。」
ショパンが、ヴァンドームに引越したのは、
シャイヨ城のお金が続かなかったからなのだ、レオはパトロンだが助けなかった、と
言いたいのだ。ショパンは、お金がないため、自動的に作曲が出来ない方向を向かされた。作曲をするアイディアは頭にたくさん浮かんでいたとショパンはレオに言いたかった。そして、時間は経ち、「しかし、ピアノの前に座ることも、ペンを持つことさえもできなかった。
このような偉大な天才が、肉体的に無傷のまま、純粋に不毛の地と化すのを見るのは、何と心苦しいことだろう。
なぜ、芸術家の作品は不滅なのに、それを創り出した天才は人生の夜明けとともに消え去らなければならないのか。
しかし、私はそのような議論に入ることを信用しない。」
ショパンはまだ元気を取り戻そうとしていたのだ、それなのに…これは、ショパンも認めていた芸術の解る唯一の人であるグシマーワのショパンを失った悔しさだ。
「 新居の準備が整ったものの、彼は、まだ身体の弱さを克服できなかったため、彼の心は、自分の命の運命を内心で確信するようになった。
その瞬間と死の時間とは何日も隔たっていた。しかし、彼の友人たちにとって、この10日間は、彼の芸術家としての全生涯に匹敵する価値を持っているのです。
古代の最も偉大なストア学派は、これ以上ないほど素晴らしい死の例を残しました。
より優れた死、より高貴な、より純粋な、よりキリスト教的な魂の模範を残したものはない。彼の死闘は、告解と聖なる秘跡の施行の後、3日3晩続いた。」これは、本当にショパンの理解者だったのはグシマーワであることが現れている。ショパンはかなり信仰深かった。聖書を読破し暗記していたほどだった。
「これほど粘り強い生命力は見たことがない。医者も克服することができなかった。そのような時、私の心は、もし彼がこの病気にかからなかったらという思いに押しつぶされた。」ショパンを失ったグシマーワの悔しさは、レオへぶつけられた。
「もし彼が、自分の一生を毒したジョルジュ・サンドと知り合うような不運に見舞われなければ、彼は最後まで生きられたかもしれない。」ショパンが必ずこれだけは書いてほしいとグシマーワに話してあったのだ。
サンドの邪悪なたくらみの不運に巻き込まれていることを知りながら、銀行家レオも誰もショパンを助けなかったため、ショパンの寿命が縮んだのだということをグシマーワはショパンに代わり述べた。グシマーワもサンドと恋人だった時があったが懲りたのであろ。
そして、「ケルビーニと同じ年まで生きていたかもしれない。」ショパンはもっと長生きしたはずだとグシマーワは思っていた。
このグシマーワの一言は恐ろし事実なのだ。ケルビーニは、1760年9月14日フィレンツェ に生まれ、1842年3月15日パリで亡くなっている、81歳だった。ショパンはケルビーニにパリに来たばかりの頃、何度も会いに行っている、ショパンはケルビーニを干からびたでくのぼうで、パリ音楽院の授業は社会情勢をだらだらと話しているだけで、こんな音楽院に入っても音楽家にはなれないとワルシャワのエルスナー先生にショパンは伝えたことがあった。ショパンは既に作曲技法を網羅していて改めてパリ音楽院に入るまでもなかった。しかし、ショパンには職がなく、パリ音楽院はショパンが煙たい存在だったため、ショパンを冷遇しながらも、その才能は吸血鬼のように吸い続けていた。その中のひとりがケルビーニでもあったという訳だ。グシマーワもショパンの苦労を見ていた一人であり、それを知っていたのだ。グシマーワはショパンも81歳まで生きれたはずだと嘆き怒りさえ覚えたのだった。
「最後の日、最後の時も、彼の心はいつもと同じように清らかだった。
彼はよくベッドの上で起き上がり、少なくとも20人の人に語りかけた。
四日四晩、ひざまずいて祈り続けた、ボロ布を着た慕わしい人たちです。
彼はほとんど慰めにも似た言葉を、礼儀正しく、品行方正に、機転を利かせて、
この世界とはかけ離れた優しさと親切心持っていた。
彼はすべての人を見分け、その人の小さな特徴もすべて覚えていた。
そして、自分の作品に込めた思いを、作品に込めた思いと同じ高貴な心で、作品に込めた思いを語ってくれた。
 彼は、言いました。
「多くの構図を多かれ少なかれ見つけることができるだろう。
あなた方が私に寄せる友情の名において、私は、それらをすべて焼却するようお願いします。ただし、ピアノ練習曲は例外で、アルカンとリーベルに遺贈し、何か利用できないかと考えています。
残りは例外なく炎に捧げなければならない。私は常に大衆に大きな敬意を払ってきたし、私が出版したものはすべて常に私が作ることのできる限り完璧なものであった。
私の名を騙って、世間にふさわしくない作品が世に広まることを望まない。」
そして、彼は何時間も同じように高尚な言葉を発し続けた。」
ショパンが亡くなる時の様子を刻々と書いたグシマーワは、ショパンの作曲家としての遺言をレオにも伝えた。それは、レオが、
ショパンが遺したまだ未発表だった作品を、
お金に目が眩んだ連中に騙されて、ショパンが一番懸念していた盗作や名前の騙りに悪用されないようにという警告であった。
「それから数時間後、9日の水曜日の午前2時、彼は別の世界へと旅立った。
彼は、グートマンと抱き合い、ソランジュ夫人と抱き合おうとした。彼は最期の瞬間まで微笑んでいた。」ソランジュは来ていたのか、抱き合おうとしただけで抱き合えなかったのだ。ショパンのベットの周りには20人程集まっていた、だから、ショパンはソランジュの名前を呼んだのだ、『ソランジュ』と、
ソランジュがいたかは不明だが、恐らくいなかったのだ。ショパンはソランジュに何を言おうとしていたのか…。
「私たちは、彼のこのような魂は、神にとって大切なものであることを確信することができます。
死ぬ数時間前、彼はポトツカ夫人にベッリーニとロッシーニの3つの曲をリクエストしました。
彼女は自分で伴奏をつけながら、すすり泣くように歌った。
彼は、この世で聴く最後の音として、嗚咽と宗教的な感情でそれを聴いていた。
彼は、医学は自分の病気を理解していないと確信し、自分の遺体を解剖学するように指示を出した。
そして実際、彼の死因は、考えられていたのとは違っていたことが判明した。」
驚いたことに、現在もなお、ショパンの死因は議論の的となるが、ショパンは結核に生涯苦しんだ、とされて来ている。ショパンが亡くなる数ヶ月前に医師が結核と診断したのだが、亡くなった後の解剖では誤診だったことが判明したとグシマーワは報告しているのだ。では、いったいショパンの病は何だったのであろか、それについては書かれていないのだ…。現在もなお真実は不明なのだ。
グシマーワのレオへの書簡に戻ろう…
そして、ショパンがポトツカ夫人にリクエストした曲は本当はショパンが書いた曲だったのかもしれない。ポトツカもそれを知っていて涙した…。ポトツカが歌ったのだが、ショパンの心はワルシャワの歌手だった、婚約者であり結婚の指輪を交わし、二人で教会で式を挙げたコンスタンツァアとの美しい日々のことを思い出していたのかもしれない。コンスタンツァアはショパンが亡くなってからもパリから送られて来たショパンからの書簡を生涯大切にしていたのだが、
コンスタンツァアは亡くなる前に燃やしてしまい、残念ながら現在しないのだ。
グシマーワの書簡には、ショパンの葬儀の様子が伝えられている…
「しかし、それにもかかわらず、彼には既に寿命はなかったのです。3日目、防腐処理を施し、服を着た彼の遺体は、花で覆われた状態で安置されたました。親しい友人や一般の弔問者が自由に巨匠に別れを告げに訪れました。
モーツァルトのレクイエムと自作の葬送行進曲を、ラブラッシュ、ヴィアルドー夫人、
コンセルヴァトワールコンサートが協力して演奏しました。
しかし、私たちがどんな世界に住んでいるかをあなたに私は示すために、そして私の手紙を終わらせるために、
私は、あなたに言っておきますが、
歌手たちは2,000フランを要求してきた。
私は自尊心を傷つけられた。
歌手たちは、ショパンの思い出に売るのではなく、ショパンへの敬意を提供すべきであった。
いつまでもあなたの親友であるアルバートより」
ショパンの葬儀は1849年マドレーヌ寺院で、モーツァルトのレクイエムと自作の葬送行進曲が演奏され行われた。葬儀には3千人以上のポーランド人が訪れた。
最後に、グシマーワは君に言っておくが、と前置きをして、金の話を切り出した。
金の話しは、ショパンが亡くなっても付いて回った。
有名歌手ラブラッシュ、親友だったはずのポーリヌ夫人、ショパンを冷遇したパリ音楽院、これらがショパンの葬儀で演奏したのだが、世間へのパフォーマンスでしかなかったというのだ、だから、後から2000フランの請求書がグシマーワに来たのだ。せめて、歌手ポーリヌだけでも、ショパンとの友情のために心から歌い、お金は辞退してほしかったグシマーワであったのだ。この歌手達を軽蔑したグシマーワだった。貧乏なグシマーワはお金は払えないため、ショパンのパトロンだったレオに、あなたは金持ちだから、これくらいのことは、ショパンへの間に合わなかった恩返しだと思って、あなたが歌手達に支払ってくださいと通告の意味を込めたグシマーワだったのだ。
1849年10月17日フレデリック・ショパン没、39歳とういう若さで人生を悟り神に召された。グシマーワはショパンの葬儀長を務めた。あれほどショパンを苦しめたチェリストのフランショームは見舞いには来なかったが、葬儀には現れショパンの棺をグシマーワと共に担いだ。葬儀は10月30日
パリのマドレーヌ寺院にてショパンのソナタ二番の葬送とショパンの遺言だったモーツァルトのレクイエムが演奏された。
パリのポーランド難民3千人以上の人々に
見送られてショパンはペールラシェーズ墓地へ棺は運ばれ埋蔵された。同時にポーランドではジェラゾラビラの生家へ弔問に訪れた何千人の人々が後を経たなかった。
…ショパンの遺言により、ショパンの心臓はワルシャワの聖十字架教会の柱に、ショパンの遺体はパリのペールラシェーズ墓地に今も尚、眠っている。
ペールラシェーズ墓地の墓碑はショパンが可愛がっていたソランジュの夫である彫刻家のクレサンジュによるものである。
そして、四つ左隣りには奇しくもケルビーニの立派な墓がある…、、、

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皆様、長い間、私、Pianist由美子UNOが
綴るフレデリック・ショパンの生涯の物語を
お読みいただき誠にありがとうございました。
2018年からスタートした、ショパンの生涯の物語は、ここで、一旦終了いたしました。
しかし、まだ、終わりはありません。
書ききれなかったことや、また、何か分かり次第、コンテンツは続けていきます。
今後とも、引き続きよろしくお願い申し上げます。
Pianist 由美子UNO
         2022年5月10日火曜日
pianist由美子Uno
ペールラシェーズ墓地ショパンの墓の前にて
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Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです