フレデリック・ショパン、選ばれし者の苦悩…フレデリックは2番に選ばれた、1番よりは生き延びた…選んだのはエ・ル・ス・ネ・ル、、、「2番で助かったと思え」フレデリックを説得す…

🎶ポトゥジンのティトゥスの邸宅の前の
ティトゥスとコンスタンツァアとフレデリック🎶コンスタンツァアとフレデリックの間に立ちはだかるパトロンのティトゥス
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パトロンのティトゥスはポーランドの田舎にあるポトゥジン村を所有する中下級の貴族だった。
ティトゥスが所有したポトゥジン村の歴史は1472 年まで遡る。1588 年ジギスムント 3 世ヴァーサ王がヤン ・ザモイスキにポトゥジンに土地を与えたことが始まりだった。そして、レンガ造りのマナーハウスの建設が始まり、18 世紀に建てられた古いマナーハウスは、何度か改築や増築されながら、最終的に1840 年から 1850 年にティトゥスによって完成させた。
フレデリックが訪れた1830年末7月の頃、このマナーハウスは、まだ完成されていなかった。完成したマナーハウスの記録では、
西側の部分は、平屋建ての棟で、
入り口の前に2 本の柱のある柱廊があり、
西側の平屋と本館のマナーハウスは短い
回廊で繋がっていた。本館は 2 階建てで、平面図は長方形で地下室があった。この本館は滑らかな寄棟屋根で覆われ、屋根の長い半分は2 つの半円形のドーマーがあった。
1階と1階には長方形の窓と鉄製の欄干が付いたバルコニーが付いていた。
邸宅本体の東側の延長として、9 つの高いアーケードを持つオレンジ工場が造られた。
1階には十数室、本館下の1階に数室の客室があった。
リビング ルームは一番古い棟の北西の角にあった。1830年7月にフレデリックが滞在したとき、このリビングルームでオーナーのティトゥスが開催したサロンコンサートでフレデリックは演奏をした。
リビングルームはルイ16世様式の家具で装飾されていた。その壁には、19 世紀の風景絵画が幾つか飾られていた。
夜想曲第6番 ト短調 作品15-3 はこの後の
1832 年から1833 年にパリで書かれたとされているが、実際にはフレデリックは30年のポトゥジン滞在を回想して書いた。恐らく、フレデリックは滞在中に憂鬱な環境を音符に託して即興で弾いた可能性があり、三年後にパリで回想しながら楽譜に書き留めたのである。

1830年の八月のワルシャワに戻ったフレデリックはティトゥスに報告の続きを書いた。
「2日前、私はゼンベク将軍のキャンプを2度目に訪れました。
彼はまだソチャツェフに駐屯しており、ミヒャエル(スカルベク)が私をそこへ連れて行ってくれるよう手配してくれた。
ミヒャエル(スカルベク)が私をそこへ連れて行ってくれた。しかし、その案は失敗に終わった、」
フレデリックはマゾフシェ県ソハチェフ村に駐屯していたゼンベク将軍にスカルベック伯爵の弟のミヒャエルの手引きで会いに行った。これは、本当にスカルベックの弟だったのだろうか…。
ポトゥジン村のフレデリックの訪問は、
ティトゥスがフレデリックに何か指示をすることが目的だった。
しかし、ティトゥスから指示された計画は失敗に終わったことをフレデリックは報告した。
何かを企てることをティトゥスから命令されていたフレデリック。その何かは何か…。
マゾフシェ県ソハチェフ村はフレデリックの故郷のジェラゾラビラからほど近い、
ソハチェフ村はポーランドの行政の重要な地区であり元は防御用の砦に住む城主の居城だった。村は商人街道と呼ばれるカリシュからチェハヌフ、ワルシャワからポズナンがぶつかり合う交差点のような場所だ。
18世紀にはワルシャワとポズナン、ドレスデンを結ぶ道路がこの町を通っていた、ポーランド王アウグスト3世は頻繁にこの道を利用していた。1793年のポーランド分割後には、
ユダヤ人が移住者が70%以上を占める村となっていた。フレデリックの父もユダヤ人であり、その頃にポーランドに移住したのである。フレデリックも自身をユダヤ人だとよく語っていた。ティトゥスもユダヤ人の移住者だった可能性がある。
「彼はあのマイル・チャイコフスキの弟です。ゼンベク将軍はとても音楽的で、優れたヴァイオリニストであり(かつてローデの弟子だった)、彼女が演奏するとうっとりするようなあのマイル・チャイコフスカの弟だ。
ローデの弟子だったこともある)、パガニーニの崇拝者です。
彼は軍楽隊に演奏を命じた。彼らは朝から練習していて、私は素晴らしい演奏を聴きました。ラッパと呼ばれるトランペットのようなものです。半音階を信じられないような速さで演奏し、低い音に向かってディミヌエンディを作れるのです。
私はソリストを褒め称えなければなりませんでした。しかし、
彼はまだ若いのに、病で消耗しているように見えました。マサニエッロのカヴァティーナが、完璧な正確さと繊細な陰影をもって演奏されるのを聴いて、私は考えさせられるものがあった。
ゼンベク将軍の陣営にはピアノがありました。
私が演奏すると、彼はなぜか私を理解してくれました。私のアダージョ(ヘ短調協奏曲)は彼に最も感銘を与えました。
そして彼が私を引き留めたため、私は『
トルコ』の開演に間に合わないほどでした。」
ソハチェフ村に駐屯していたゼンベク将軍の幕営地にはピアノがあったのだ。どんなピアノかは不明だが、そこでフレデリックはピアノ協奏曲ヘ短調のアダージョを演奏し、
ゼンベク将軍や軍人や軍楽隊を慰めた。
フレデリックはこれから国に仕えることが出来るか試された。
そして、フレデリックは、前日に見た評論に
恐れおののいていた、それは、
ポーランドの国営雑誌《ガゼータ・ポルスカ》(1830年8月30日)にベルリンの新聞記事に掲載されたコンスタンツァアの『アニェラ』が正しく称賛されたことをまず、ティトゥスに伝えてた後に、
エルスネル先生の弟子として、オルウォフスキとショパンの名前が挙げられていたことだった。
この二人がポーランドの民族ために曲を書いて演奏しポーランドの国に貢献することになるであろうと書かれたのだ。
これには、フレデリックは憤慨した。
才能なしのオルウォフスキと同志にされたくないフレデリックだからだ。
これをフランス人で政府委員会の歳入財務担当者だったフェリックス・プーケは「うまくいった」と赤い目をして呟いていた。
エルスネルはフレデリックに2番目に書いてもらっただけでもいいと思えと言った。
こうしてフレデリック・ショパンはポーランドの国のために働くことが決定した。
もうどこにも逃げられないフレデリックだったが、1番に選ばれなかっただけでも助かったと思えとエルスネルはフレデリックを説得したのだった。
1番に選ばれたオルウォフスキは作曲の才能は今ひとつだったが画家であり、軍人なのだ
国のために戦争画を描いた時もあった、
この2年後にサンクトペテルブルクで彼は亡くなる運命を辿った。
ピョートル・ゼンベク
( 1788 年12 月 14 日に ワルシャワ−1866 年3 月 21 日シェミアニツェ) 
ポーランド軍の師団長、伯爵。
1830 年の 11 月蜂起のポーランドの少将。
ピョートル・ゼンベクは、1788 年 12 月 14 日にワルシャワで、ユゼフ・イグナツィとクネグンダ、旧姓ワレウスキー家の貴族にまれた。彼はベルリンの陸軍士官学校で教育を受ける。1807 年からワルシャワ公国とポーランド王国の軍隊に勤めた。ワルシャワ公国の陸軍大尉だった。1812年ロシア侵攻に参加した。1813年にグダニスクでフリデリカ・ベク・ド・タヴェルニエと結婚。
息子はアレクサンダー・ゼンベク伯爵(1824年から1830年にかけてポーランドのロマン派詩人ユゼフ・ボフダン・ザレスキーの弟子だった。1829年5月24日から1831年1月24日まで、ソハチェフの第1歩兵師団第3旅団を指揮した。ピョートルの伯爵の称号は1816年1月17日にプロイセンで確立され1820年に会議王国でも確認された。1829年に准将に昇進した。
11月蜂起(1830年 - 1831年)では、 1830年12月4日から12月16日までワルシャワの軍事総督を務めた、戦争評議会のメンバー。第 4 歩兵師団の将軍および指揮官。ヴァヴェルの戦いとオルシンカ・グロチョフスカの戦いに参加した。「ゼンベクを信じろ。ゼンベクは裏切らない。」と人々から信じられていた。彼の副官の一人はフランチェシェク・カクペル・フォルナルスキーでした。総司令官ヤン・シュクシネツキ将軍との対立の結果、解任された。しかし、彼はヤン・カンティ・ジュリアン・シェラフスキの軍団の志願兵として軍歴を続け、スクシネツキの解任後は師団将軍として復帰した。蜂起の終結後、彼は大ポーランドのケンプノ近くの邸宅シェミアニツェに定住した。
1835年、11月蜂起に参加したとしてロシア当局から財産没収の判決を受けた。
彼はフリーメイソンのロッジ、フランセ・エ・ポロネの会員だった。

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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