ウィーンでショパンはハスリンガーに依頼した楽譜の出版が遅れて困っていたのは1830年12月初めのことであったが、1か月以上経ってもショパンはウィーンで演奏会が開けなかった。
11月蜂起を境にウィーンにおけるポーランド人への反感がウィーンの保守的な貴族の間や庶
民の間に強まっていたことをショパンも感じ取っていたようだ。
そのため、3月の演奏会はポスターが出来上がっても延期となり、次の4月には中止となり、
ワルシャワ蜂起はウィーンに滞在していたショパンの演奏活動に大きな影を落とした。
銀行へお金を借りに行ったショパンは「ウィーンには優秀なピアニストがたくさんいるので
演奏会を開くことに賛同できない」と冷遇されたショパンであっが、逆にショパンはウィー
ンの音楽界の現状は惨憺たるものだと思っていたようだ。
そのことを、「劣悪なピアノ演奏会が毎日のようにたくさんあり、芸術としての音楽を貶め
ている」とショパンは冷静に状況を観察していたようだ。
このような現状の中でも、ショパンはマルファッティの別荘に招かれていた。
体調の優れなかったショパンであったが、マルファッティ家の温かいスープでショパンは生
き延びた気分であった。
マルファッティの別荘はシェーンブルク宮殿の地続きのような場所で、ショパンは都会の喧
騒から離れ、そこから山のふもとに見える農家や修道院の景色を眺めていると心が落ち着い
たのだっだ。
ショパンはオペラ劇場によく通っていた。そのなかでもショパンのお目当ては王室歌手の
ハイネフィッター姉妹(ユダヤ人)だった。彼女が出演するオペラに支払うお金は惜しくな
いからとショパンは父親にお金を送ってほしいと頼んでいた。
しかし、中止になった演奏会でショパンはハイネフィッター嬢と同じ舞台に立つ予定であっ
たが、それは幻と消えたのであった。
そのあと、6月に実現した演奏会はショパンは自分が望むような演奏会の出演ではなかった
ため彼は死にたい気分だった。4月の中止の演奏会とは出演者の顔ぶれが変わりハイネフィッ
ター嬢の名前はなかった。
ショパンは自分ではどうにもできない大きな運命の挫折感を味わっていた。
そして、ショパンはウィーンの歌手で評論家のフランツ・ザーレス・カンドラーの案内で帝
室図書館に行った。
そこで、カンドラーが書棚から引き抜きショパンに手渡したのは、なんと、シャンペン(ス
タニスラフ・シャンペン フランス人作曲家)の名で出版されたショパンの「変奏曲」であ
ったのだった。ショパンのその時の胸中は計り知れないものがある。
ショパンは、ウィーンに来てからというもの、辛抱、辛抱、と自分に言い聞かせて貴族社会
の慣習に耐えて来た。
ハスリンガーが、ショパンの楽譜を泥棒することは想像していたショパンではあったが、
シャンペンの名で自分の筆跡までが載せてあるページを見たショパンは、この校訂に関った
ハスリンガーとウィーンの出版社に対して「馬鹿たれどもが」とショパンは心の中で叫ぶし
かなかった。
ザビーネ・ハイネフィッター
ストッキー・ハイネフィッター
クララ・ハイネフィッター
1830年シェーンブルン宮殿
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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