パリというところは、最高な芸術が観れるかと思うと、街がうすぐらくなってくると、
露店商人が低俗な卑猥な本を売って歩いているところだ、かと思うと、その中にたいへん機
知に富んだ本が混ざって売っていたりする不思議なところだとショパンはどうしたらそのよ
うな本が作れるのか驚いていた。
そのように、人々の様子はオペラ座で金持ちを見る日もあれば、パリでは乞食の群れを見る日もあるショパンであった。
(1831年12月ショパンがパリに来たばかりの頃は1830年の7月革命で貴族社会は終わっていたたが、フランス国王は退位したものの、「フランス国王」でなく、「フランス人の王」としてルイ フィリップが即位した。)
また、大臣にの言いなりであるルイ・フィリップを低能であると下層階級は思っていた。とうとう不満は暴動になった、ショパンはその様子を5階の窓から眺めていた。
その頃、ショパンの演奏会が1月15日から延期になった理由は実はオペラ歌手を指揮者のフェロンが貸してくれないからだった。
ショパンはパリに来て、直ぐに人と仲良くなれるが、感情を分かち合える仲間はいなかった。
いつでも自分は人と歩調が合わない、そういう時は、一日中重苦しくて息が詰まりそうな気
分なのだ。実は自分は誰からも無視されているのだとショパンは感じていた。
そんな中、ショパンのワルシャワの頃からの友人でウィーンでツェルニーに習ったソヴ
ィンスキがショパンのアパルトマンに来た。
ショパンは、ソヴィンスキの巨大な体格で、狂人のようにピアノをバンバン破壊するかのよ
うに叩く姿に耐えられない気分になった。
ソヴィンスキは芸術についてもほら吹きで、馬鹿な話ばかりするのでショパンはそれを忘れ
るために部屋中をしばらく歩き回らなくてはならなくなるのだ。
粗雑な大騒音をゾットするような伴奏でソヴィンスキが意味のない音を出すので、ソヴィン
スキはピアニストとして絶望的だとショパンは思った。
それだけではない、またも、ショパンは友人であるはずのソヴィンスキにまで、ショパンの
曲は盗まれていたのであった。しかも、その曲を趣味の悪い下品な曲にソヴィンスキはして
しまうのだ。ショパンは迷惑でしかなく誰も信用できないと益々思う日々であった。
ヴォイチェフ・ソヴィンスキ(1805年ロシア帝国 - 1880年3月5日パリ)
ポーランドの 作曲家 ピアニスト 作家 カール・ツェルニーにウィーンで学んだ
1828年イタリアに行き、音楽教師としてパリに移住
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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