「あいつはピアノさえ弾かなければいい奴なんだけれど」ショパンは心の中で思った、
ショパンに親切なふりをしてショパンの曲を泥棒する悪党では友人とは言えない。
才能あるショパンは嫉妬の対象となり、はたまた、ショパンの才能を何とかして盗み出そう
としてショパンに近寄って来る人ばかりであった。それを分かっていながらも、ショパンは
抗議できなかった、天才だけが知る孤独であった。
音楽は人を良くも悪くもするものなのか、それとも、何をやっても悪党は悪党なのか、
悪党に音楽を扱わせては悪でしかない、ソヴィンスキの手はウクライナの農場の支配人の家
柄を思わせるようなムチで動物をひっぱたいたり革製の手綱を握るためにあるかのような巨
大な手であるとショパンは思った。そのため、彼のやっていることは音楽の暴力のようにし
かショパンには見えなかったのだ。ショパンは思った、ソヴィンスキの巨大な手は音楽のた
めに神が創ったのではないはずだ。
厄介なことに、彼の興味はネクタイをどう格好良く結んだら自分がお金持ちに見
え、上流階級の貴婦人に気に入られるかということだけで、実際の彼が出す音は粗雑そのものであるにもかかわらず、偽物芸術家ソヴィンスキをパリの人々は彼をそれなりに高名な人と勘違いしていることだった。
ソヴィンスはポーランドの田舎出身であったが、自分を大きく見せるために、一度も訪れた
ともないワルシャワのことを知ったかぶりをしてパリの人々を騙していた。ショパンは偽者
ピアニストであるソビェスキに我慢がならなかった。
ショパンのアパルトマンは5階のマホガニーの家具付きの部屋で優雅な鉄の装飾でできたバルコニーからは街が一望できた。その部屋と通りを隔てた反対側にジローラモ・ラモリーノ
将軍が住んでいた。シテ・べルジュと呼ばれる居住の通路があり大きな中庭に繋がっていた。彼はイタリア生まれのフランスの革命家だ。パリで大衆に熱狂的に歓迎されていたのだ。
パリでは反政府の扇動者に大衆が千人も集まり三色旗を持ってジローラモ・ラモリーノ将軍に挨拶に行進
して来た。それは、ポーランドの移民であるため彼らは「ポーランド万歳」と窓の下で叫ん
だのだ。しかし、ジローラモ・ラモリーノ将軍は政府との紛争は望まないので姿をあらわさなかった。
その様子を見ていたショパンは彼が姿を見せなかったことにがっかりしたのだった。
ショパンが来たばかりの1831年パリはルイ・フィリップがフランスの王となったが、政権は
銀行家のラフィエットや高級金融業者が握っていた。
そのため大衆である中流階級の貧困の広がりが深刻であったのだ。
ジローラモ・ラモリーノ将軍
(1792年4月8日ジェノバ - 1849年5月22日トリノ) -イタリアの一般のメンバー1830年のポーランド蜂起。
フランスの元帥としてナポレオン戦争に参加し戦隊司令官に上昇した。ピエモンテでの蜂起に1821年に参加した。1830年から1831年までロシアに対するポーランドの蜂起を支持した。
彼は月1831年アダム・チャルトリスキから与えられたワルシャワで率いる「ポーランドの国」軍団の司令官だった。
ラモリーノはワルシャワの捕獲の数日後に戦いを止めた。彼はオーストリア帝国に彼の体を取り、中に自分の腕を下に置くガリシア近く戦った後、Jozefowの上で9月17日3。で9月20日、ロシア人は無条件降伏を課します。
オーストリアでは、ポーランド軍は武装解除され、軍事装備はロシアに配達されましたが、数週間の拘留期間の後、彼らはオーストリア(または他の軍団のためにはプロイセン)を離れる可能性があります。西ヨーロッパ諸国(フランス、ベルギー、またはイギリス)。
何千人もの同胞のように、ラモリーノ将軍はフランスへ亡命。彼はで1831年12月の早期到着ストラスブール、彼はポーランドの難民から熱狂的に迎えられた。まもなくして起きた、パリでのポーランド難民のデモはフレデリック・ショパンの喚起で開催されたと言われている。
1848年、キング・チャールズ・アルバートの招待で、ピエモンテに住んだ。1849年に彼はピエモンテ軍の師団を指揮した。ノバラの戦い(3月23日)で、ラモリーノは首席補佐官の命令に反してラデツキーの動きにだまされ、ラデツキーはラモリーノのミスを利用してティチーノを横断することを急いだ。これはサルデーニャ軍の敗北の最初の理由になり、彼は戦闘中に命令に従わなかったとして非難され、死刑判決を受けて処刑された。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
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