ショパンはデビュー演奏会の後、ショパンの財布には1ダカット(現在の約10万円)しか残ってなかった。ショパンは自分を貧民と呼んだ。
ショパンは、1832年4月、ワルシャワのエルスネル先生と同じ門下生の友人でピアニストのユゼフ・ヴワディスワフ・クログルスキーもパリに来るかもしれないと思った。
クログルスキーもピアニストで作曲家である。彼は年齢を偽り、実年齢よりも優秀に見せかけてワルシャワでデビューした。クログルスキーに限らず、モーツァルトも実年齢より下に歳を偽っていたように音楽家は年齢を偽り人を騙したりしていた。それをショパンは知ってか、クログルスキーの演奏は良いとは思っていなかった。
ショパンは、クログルスキーに是非パリに来るようにと誘いながらも、パリの厳しい情勢を親切に伝えた。1、生活費は充分な貯えがなければならない 2、パリで弟子を取って生活するのは困難、3、演奏会を開くのはコレラで取り消されている 4、コレラによって人々はすべてにおいて無関心で無気力になっている 5、オペラ座はロンドン公演のツアー中で公演していない、などなどである。
そのため、パリに来るのはよく考えて5月になってからにするようクログルスキーに促したショパンであった。そしてショパンは音楽院の演奏会に自分が出演するからと報告したかったが、それは叶わなかったため、ベートーヴェンの〈第九〉が素晴らしいなどと音楽院の演奏会の話をクログルスキーしたショパンであったのだ。
それから、5月になってもクログルスキーはパリには現れなかった。
6月になり、父ニコラは、パリの狭いアパルトマンで自分のことを「貧民ショパン」と日記に書いて塞ぎ込んでいる息子ショパンを想像した、そろそろお金に困っているころであろうとニコラは思った。
ショパンはホームシックからくるうつ状態や、友人やカルクブレンナーの裏切り、音楽院の冷遇などさまざまなことから人間不信に陥っていた。
ショパンの胸の内を父ニコラは恐らくショパンの友人から聞いたのであろう。
父はショパンの気持ちを察しながらも、ある人のことを指して「馬の糞」と呼ぶのは辞めなさいと息子ショパンに忠告したが、息子ショパンがやけを起こす発言をするのも、父ニコラは出版商人のシュレジンガーがショパンにお金を払っていないからなのではと睨んでいた。
父ニコラはショパンに出来る限り節約して、これからまだ行こうとする国へ行けなくならないようにくれぐれも気を付けるようにと息子ショパンとパリの情勢に心配が尽きなかった。
モーリッツ・アドルフ・シュレジンガー( 1798年10月30日 - 1871年2月25日)
ユダヤ人、ドイツの音楽編集者 ベルリン生まれ、父は音楽雑誌『Berliner allgemeine musikalische Zeitung』を創刊したアドルフ・マルティン・シュレジンガー。
1815年パリへ移住。1821年に父と音楽出版社を設立。
モーツァルト、ハイドン、ウェーバー、ベートーヴェン、フンメル、マイアベーア、ベルリオーズの作品を出版した。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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