パリは8月に入ったがコレラ騒ぎはまだ治まっていなかった。ショパンを助けたことがあったフェルディナント・ヒラーはフランクフルトに帰っていた。
ヒラーは音楽家としてパリで順調に活動していて音楽院院長のケルビーニ気に入られていた。ショパンは音楽院での演奏会の出演を断られたが、ヒラーは自身の作品を音楽院の演奏会で発表することになっていた。
ヒラーに恩があったショパンはヒラーのピアノ三重奏曲をヒラーがパリにいない間にショパンは手伝って仕上げていた。
ショパンは「自分が書いた曲だから自分が既に演奏も出来るし、僕はそのくらい何でもできるのだよ」とヒラーに言った。
ヒラーのその曲は実験的に作曲家のアドルフ=シャルル・アダンの弟子が音楽院で演奏することになっていた。
パリオペラ座ではバレエ〈ラ・シルフィード〉が初演されていた。ショパンはこの悲劇は自分とコンスタンツェのことを思い出すようで嫌な感じがした。
その頃、出版商人のシュレジンガーはオペラ〈悪魔のロべール〉の興行でロンドンに行った。しかし、この時、コレラ騒ぎのパリから来たオペラ座はあまり好評ではなかった。
イグナーツ・モシェレスとジョン・フィールドが冬にはパリに来るとショパンはシュレジンガーから情報を得てフィールドに似ていると言われていたショパンは楽しみだった。
ショパンがウィーンの時やパリのデビュー演奏会で一緒に出演したジョージ・アレクサンダー・オズボーンもパリを離れで2週間ロンドンに避難していた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ピクシスはブローニュへ避難した。
カルクブレンナーはイル=ド=フランス地域のムードンへ逃げて、ロッシーニはボルドゥへ逃れていた。リストとショパンはパリにいたのだった。
9月に入ると、ショパンはユリウシュ・スウォヴァツキ、(ポーランドのロマン派詩人でアダム・ミツキェヴィチとジグムント・クラシンスキと共に「ポーランドの三大詩人」)
と交流していた。
ポーランドの11月蜂起で反乱を起こしたワジスワフ・プラターはパリに亡命して来ていた。スウォヴァツキはその晩餐会に招かれていた。スウォヴァツキは晩餐会の合い間にショパンに会いに行った。
それは、ショパンやパリに来ている芸術家の男だけの集まりだった…ショパンはその小さな集まりで演奏をしていた。スウォヴァツキはポーランドのいろいろな詩人の詩の朗読をして楽しんだ。それは知的な時間であった。しかし、それを真似して、
その2、3日後にポーランドのピアニストでストルぺ・アロイズィが夜会を開き、そこへ、スウォヴァツキとショパンも招かれた。
夜会は夜10時から午前2時までかかり、死ぬほど退屈なものであった。0時にはベットに入るとウィーンでは言っていたショパンであったが、辛抱強いショパンは退屈しのぎのために仕方なく演奏したのであった。
その出来事をショパンを心配するスウォヴァツキはワルシャワのショパンの母ユスティナに「あなたの息子はパリで有名なショパンです」と伝えたのであった。
ユリウシュ・スウォヴァツキ(1809年9月4日ロシア帝国クレメネツ現在のウクライナ‐1849年4月3日パリ)ポーランドのロマン派詩人、劇作家、地質学者
アダム・ミツキェヴィチ、ジグムント・クラシンスキと共に「ポーランド・ロマン主義の三大詩人」「三羽鳥」
1825-1828年、ヴィリニュス大学で法学を学ぶ。1829年にワルシャワへ移り、政府歳入・財務委員会で職を得た。11月蜂起が起きると、国民政府蜂起外交局で働いた。1831年3月にヴロツワフ経由でドレスデンに入り、パリ、ロンドンを旅行する。1832年、パリで評価が得られず、スイスのレマン湖畔へ移る。1834年、ポーランドのヴォジンスキ家と共にアルプス旅行。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
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