そして、ニコラはショパンが少年頃、カルクブレンナーがワルシャワに来たことがあったことを思いだしていた。カルクブレンナーがたとえこの先、ワルシャワにまた来るようなことがあってもニコラは絶対に彼には会いたくない、その理由は「カルクブレンナーへの怒りの感情を隠すことは私は出来ないからだ」と言った。
そして、ノクターンとマズルカ作品9と作品6、7がライプチヒで出版し完売した。
近日ワルシャワでも再版され売り出されることになっていたのだが
つまり、ハスリンガーも、シュレンガーも信用ならないと父ニコラは言うのだ。
だから、ホ短調コンチェルトの写しを出版する前にワレウスキという貴族の従弟をパリに行かせるから彼に印刷したホ短調コンチェルトを持たせるようにショパンに言った。
それを妹のイザベラが弾いて覚えさせ確認させるとニコラはショパン伝えた。
そしてフレデリックに仕送りで家計が苦しくなっていることを「姉ルドヴィカにはピアノをまだ買ってやれないのだよ」とフレデリックにニコラは話した。
rue de la Chaussée-d'Antin (1830年頃)ショセ=ダンタン通りは、パリ9区にある通りを呼ぶ。ショパンは1833年から1836年まで住んでいた。
18世紀の後半にはショセ=ダンタン通り沿いにいくつもの大邸宅が立ち並んでいたが(現存しない)19世紀に入り、商業が発展し邸宅にブティックや店舗が入るようになった。
この5番地のショパンの住む部屋はリストなど作曲家の集まりの場所となっていた。
小説家バルザックはこの通りを「パリの心臓はショセ=ダンタン通りとフォーブール・モンマルトル通りの間で鼓動を打つ」と言った。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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