ショパン、パリよりヒラーへ宛てた作曲家の友情

パリで順調に活動していた作曲家ヒラーがフランクフルトへ帰ってからもうすぐ1年が経とうとしていた。

1833年6月20日、ショパンのアパルトマンにフランツ・リストとフラン・ショームが来ていた。

フランクフルトのヒラーの父親が亡くなったとヒラーからの訃報があったのだ。

ヒラーに何もお悔やみをしていなかった3人は集まって共同でヒラーへの励ましとヒラーの父上への追悼の意を手紙で表すことにした。

まずは、3人の中でリストが最初に筆を執った。

「君に手紙を書こうとして我々が集まるのは今日で20回目だ。いつも急な来客で

君に手紙を書くことを妨げられて来た。君への手紙が遅くなったことをショパンが我々と

一緒に詫びる気があるかはわからないが、私は詫びたところで許されることでないと思って

いる。だから、

我々は、君と悲しみを完全に共有し、

君の苦しみを和らげるために我々はこれまで以上に君の気持ちに寄り添っていこうと思う。

君と共に悲しむ」

続いてショパンが「リストは自分自身を非常によく表現しているので、私は何も付け加える言葉がありません。

僕は手紙を長い間書けなかったのは、自分の怠惰、インフルエンザの理由であなたへの謝罪をさせてください。

僕は、君と一緒に大通りに沿って家に帰ったことを覚えている。

僕は今、体調が優れないから自分が何を書いているのかわからずに書いている。

リストはこの部屋で僕の≪練習曲≫を演奏しいてる。僕は正直な考え想いをこの曲に込めている。

彼の僕の曲を演奏する方法は僕は好ましいと思う。だから、僕もリストのように僕自身の曲を弾いてみたいものだよ。

パリにいる君の他の友人たちに関しては、私はこの冬と春の間にレオ家と彼らのパーティーで頻繁に見かけました。

大使夫人の中には、パーティーを催している人もあり、君がどうしているか訊ねられまし

た。アイヒルタル夫人はくれぐれも君によろしくと言っていたよ。 プラーターと彼の家族全員は君が

フランクフルトへ帰ってしまったことを悲しんでいて、私に君の父上がお亡くなりになられ

たことに追悼の意を捧げる、と伝えてほしいと言っていました。」

リストがそれに付け加えて更に、

「アポ二夫人は君がパリを発つ前に君をパーティーに連れて来なかったと、私(リスト)

のことを許してくれません。

君がパリを去る前に彼女が君と約束したことをあなたが覚えていることを願っていると言っていたよ。それは大使の夫人以外の貴婦人たちも同じように君のことを言っていたよ。

ショパンのすばらしい練習曲を君は知っていますか。ショパンは 立派だよ!

ショパンの練習曲は賞賛に値するものだよ!けれど、それも君の曲が出版されるまでしか持たないと思うよ。(ヒラーを励ますためのリストの軽いジョーク)

ショパンは私を褒めるけど彼はなんと謙虚なんだ、私を褒めるのはショパンのつまらぬ発言だと思ってくれたまえ!

殿下(ヒラーのこと)、私の文字のつづりをショパンが訂正していると説明しなければなりません。

君は9月に私たちがいるパリに戻って来るのだろうね?

我々は、君が戻って来たら音楽の夜会を開いて君を歓迎するよ。だから、君がいつ戻るのか前もって知らせてほしい。…」

ショパンが続いて更に自分の現状をヒラーに話した。「ハイネに会ったらヒラーに

よろしくと言っていたよ。そして、ベルリオーズも君に愛を送ると言っていたよ。僕のアパ

ルトマンは作曲家の集会所となっていて、今、バイヨーはジュネーブに行っている。

僕が君にバッハの協奏曲が捧げられなかった理由を理解してくれると思っているよ。」

...。

ショパンはいつものように一人一人のことを事細かく心配りを忘れず、ヒラーを励まし、手紙が遅れた理由をわかってもらえるようにヒラーに謝ったのだった。


 マドレーヌ寺院・パリ 1810-1861頃の様子

ショパンの住んでいたショッセ・ダンタン通りから歩いておおよそ15分



マドレーヌ寺院・パリ 現在 

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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