ショパン、パリの孤独とワルシャワのニコラから

ショパンがウィーン旅行で友情を深めたチェコのヴァイオリニスト、スラヴィークが1833年の5月30日に亡くなっていた。彼はウィーンの宮廷教会のソリストに若くして就任していたが、演奏旅行中のハンガリーで弦楽四重奏を演奏中に27歳で亡くなったのだ。1830年ショパンがウィーン滞在中に、コンスタンス・バイエル夫人の家へ連れていってくれたのが彼だった。チェコ生まれのスラヴィークはショパンに親切だった。ショパンとウィーンで親しくなったスラヴィークは≪ヴァイオリンとピアノのための二重奏曲≫を二人で書いた。しかし、二人の合作の手稿譜はウィーンで消息不明である。ショパンはパガニーニ以来これほど気に入ったヴァイオリニスはいないと言い、スラヴィークもまたショパンを気に入っていたほどお互いの才能や人柄を認め合っていた。スラヴィークとショパンはその後、再会することはなかったが、ショパンはバイエル夫人にイタリア行きの紹介状を書いてもらたっり、パリへ行く決心をしたときも、バイエル夫人の助言に従っていた。スラヴィークとはその後は会うことはなかったが、ショパンがパリで、スラヴィークの訃報をどう受け止めたかは不明である。しかしながら、あれほど、スラヴィークとの出会いを素直に喜んでいたショパンである、ショパンがショックを受けていたことは間違えないであろう。

1833年はショパンにとって、パリでは住居を引っ越すなどさまざまな変化があった。そして、その夏にはフランショームの紹介で田舎で過ごすなど、また、ショパンのアパルトマン

がリストなどの作曲家の溜まり場となり、さまざまな人がを出入りするなど、ショパンは寂しさを紛らわすかのようにお金にならない仕事に多忙を極めていたのだった。

時は移り変わり、1834年に入ると、フレデリックの父のニコラスは一人暮らしの息子の健康が心配でたまらなくなった。

親心でニコラスはフレデリックが自分の身の回りのことが出来ないのではと心配した。

そして、いつもの、ニコラスの説教がワルシャワからフレデリックの元へ届いたのだ。

「一緒に住んでくれる本当の友人がいなくて話し相手もいないことは情けないことだ」、とか、

「付き合いの訪問は控え、夜遅くなるパーティーは疲れ切ってしまうまで付き合わないように、それが、おまえの名声を維持し気持ちよく暮らせる方法だ、」

そして、「アパルトマンの部屋をたばこの煙でいっぱいにするような友人は、おまえの健康を害すだけだから一緒には住んではいけない、おまえは煙草を吸ってはいけないよ」「若い男は簡単に迷子になる、おまえの才能と社会的な評価は簡単に世間の的となるであろう。しかし、おまえはどんな不正行為も避け興味を持ってはならない。

流行などというものは、よく見ればとても些細な社会だ、おまえは曇らない目で冷静に物事を見て平静を保つことだ」などニコラスの助言は更に続き、

そして、「おまえがドイツへの小さな演奏旅行を計画していることは賛成だ、それともパリで静かにレッスンの仕事をするのもいいが、おまえがドイツへ行くのなら、お金は私が用意

するから心配はないよ」と息子フレデリックに優しいニコラだった。

そして、もし、誰かと同居するのなら、フレデリックが同居人の行動に責任を持てる人にするように、慎重に人を選ぶことも忠告した父ニコラであった。

そして、名声は得つつあってもフレデリックの夢であったオペラや出版した曲がカルクブレンナーに改ざんされたことなどで本当は息子が順調でないのではなかろうかと心配し、父ニコラは「狼の衣をまとった小羊がどこにでもいるよ」とフレデリックがパリで悪に騙されないように忠告したのであった。

J. Rosenhain, T. Döhler, F. Chopin, A. Dreyschock, S. Thalberg, P. E. Wolff, A. von Henselt and F. Liszt


J.ローゼンハイン、T・ドーラー、F・ショパン、A・ドレイショック、S・タルバーグ、P.E・ウォルフ、A・フォンヘンセルト、F・リスト

後列中央がフレデリック・ショパン(パリに来て馬鹿になった、ショパン曰く)

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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