リストや作曲家の仲間のたまり場だったショパンのアパルトマンは、マッシンスキが来て以
来、ショパンの部屋のドアには門番が出来たため、ショパンはリスト達やカルクブレンナー
との付き合いが途絶えていた。
ベルイオーズ以来ショパンは作曲家の仲間達から、新しい作品創りのアイディアを
横取りするのに都合のいい役回りに益々されていたのだ。
それに気が付いたマッシンスキはショパンを守るために盾になってくれていたため、ショパ
ンは落ち着いた生活を取り戻そうとしていた。
そこへ、リストやヒラーが不満を持っていたのであろう、ショパンに嫉妬し露骨な不誠実を
働いたカルクブレンナーからショパンに一通の短いメッセージが届いた。
ショパンはカルクブレンナーとの最初の約束だった3年間の修行期間も終わり、ショパンは名
声を得たためカルクブレンナーのレッスンにもう通わなくなっていた。
カルクブレンナーはショパンに伝えた。
「私たちは最近、君に会っていない。 無数の気晴らしと快楽がパリにはある、
パリというところは君の古い友達を忘れさせる。 明日、一緒に食事をしようでないか。
君は、明日、私やリスト、その他の友人に会えるであろう。
私たちは君に会えたらうれしいです。 Addio.(イタリア語で書かれていた、嫌み) さようなら。」
この時、ショパンがこの誘いに応じたかは不明である。
この年ショパンが書いた作品は、即興曲第4番 嬰ハ短調『幻想即興曲』、マズルカ変イ長調、
カンタービレ 変ロ長調、前奏曲 変イ長調 だった。
1834年も終わろうとしていた。
(この年作曲された『幻想即興曲』はユリアン・フォンタナが、ショパンの意に反してショパンの死後出版された。ショパンにとってこの曲はコンサートで即興的に使うものでユリアンに燃やしてくれと言ったと伝えられている。《幻想即興曲》はフォンタナ版として広く知られているがフォンタナはショパンの作品を独断で改悪したと現在はみなされている。)
1834年カルクブレンナーはカミーユ・プレイエルとロシュシュアールの土地に工場とコンサートホール作った。
ユリアン・フォンタナ(1810年 7月31日ポーランドのクラクフ‐ 1869年12月23日 パリ)はポーランドの法律家・著述家・起業家、作曲家
フレデリック・ショパンと共にヨーゼフ・エルスナーに学んだ。1828年 12月。フォンタナはショパンと2ピアノのためのCメジャーでショパンのロンドを果たしている。1830年 - 1831年フォンタナ、ロシアに対する11月のポーランド蜂起に参加
フォンタナの先祖はイタリアから移住し何世代もに渡りポーランドに定住した。先祖の多くは著名な建築家。1600年代後半に建てられたワルシャワの聖十字架教会の一部はフォンタナ兄弟によって設計された。ユリアンの父はポーランド王国のCash-in-Chiefに就任した。1830年代に失敗したロシアに対する蜂起の後、家族の財産は没収された。
1830年 11月パリに移住、その後はユリアン・フォンタナはロンドンにも住んだ。
1837年春; ユリアン・フォンタナはパリに戻り、ショパン作品の出版。
1841年 4月19日。ユリアン・フォンタナは、Hotel de Parisのリサイタルホールで演奏。プログラムにはショパンの作品が含まれていた。
1843年3月17日。パリでコンサートを開催。出演者はユリアン・フォンタナとショパンも出演した。1844年 7月8日ショパンの音楽をキューバに紹介した。
1845年 12月8日。ニューヨーク・ヘラルドへ演奏旅行
1846年 1月3日。フォンタナはニューヨークデビューをする。集客はまばらだった。リスト、タールベルク、ウィルマースの作品を演奏した。
1846年10月15日フォンタナは、ニューヨークのアポロ・ルームでショパンの幻想曲、op 49 を演奏した。1846-1848フォンタナはニューヨークに住んだ。
1860年代にフォンタナはセルバンテスのドンキホーテをポーランド語に翻訳。1869年ポーランドの民族文化の本を出版。
1869年 12月23日難聴と貧困に屈し、パリで自殺した。パリのモンマルトル墓地に埋葬され
た。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
0コメント