Chopin,自由な国のはずパリでポーランド貴族と下僕として

ショパンがパリに来てからの恋愛相手言われてきたマリアという女性がいるが、

ショパン家はポーランドのジェラゾワビラのスカルベック伯爵家の借家に使用人の家族として住んでいた頃に、スカルベック貴族の本宅に住んでいた貴族の中にヴォジンスキ家貴族がいた。マリアはそのヴォジンスキ家の娘だった。

つまり、ショパン家とは家族ぐるみでその頃から交流があったため、ショパンはマリアが子供の頃から知っていた。

ショパンの母ユスティナはグジャウスキという名の没落貴族の出だった、ショパンの母とヴォジンスキ家が遠縁であったため、ショパンはグジャウスキの血が流れていると自身でも言っていたように、マリアとショパンはいくらか血のつながりがある親戚であった。

しかしながら、身分の違いで、ショパンは自分のことをヴォジンスキ夫人に召使と言っていた。ショパンはワルシャワの音楽院の学生だった時、学校の演奏会でヴォジンスキ夫人の

ボックス席を用意していなかったことでヴォジンスキ夫人の怒りを買ったことがあった。

(誰の責任だったかはわからない)というように古くからの付き合いであった。

ヴォジンスキ家についてはショパンは両親が使用人である立場になるため、いつもとてもショパンはへりくだっていたのであった。

その、ヴォジンスキ家のマリア嬢をショパンはパリで教えていた。それはマリアの兄でショパンより5歳年下のフェリックスとマリアのふたりを一緒にレッスンを引き受けていたのだった。ある日1835年の2月のことだった。ヴォジンスキ夫人からショパンは半年以上前にジュネーブの夜会に誘われていたがその頃ベルリオーズとの付き合いでショパンは忙しくヴォジンスキ夫人の誘いに応じられず、ひどく謝ったことがあった。それに対して、ヴォジンスキ夫人から便りがパリのショパンに来たのであった。

ヴォジンスキ夫人の言いたいこと、それはこうである。ショパンのお詫びに対して、夫人は私のほうこそご無沙汰しておりますが、

ピアノのレッスンは貴族のたしなみで、子供であるマリアは兄のフェリックスと一緒にショパンに親切にしてもらっているのは当然で立場が上である自分はショパンにわざわざ会わなくても子供から話を聞いているので充分である。そして、

ヴォジンスキ家はディワノウスキ家とポーランド貴族の知り合いで、ディワノウスキ家は、ショパンの14-15才の夏休みの間に滞在したシャザルニアの領地の所有者である。その、

ディワノウスキ家からショパンの両親やショパンのことは何でも詳しく聞いているからという意味のことをヴォジンスキ夫人はショパンに伝えるような人柄であった。

ショパンにとってヴォジンスキ家との上下関係は苦痛だった。

マリア・ヴォジンスカ  (1819年1月7日 ワルシャワ-1896年12月7日ポーランド・ボズナン) ウィンチェンティ・ヴォジンスキー伯爵家に生まれる

 

 

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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