夏になると、フレデリックは両親と約束していたチェコのカールスパートでの再会を果たした。
ルドヴィカには子供が生まれたばかりで、フレデリックは姉ルドヴィカの家族と妹イザベラ
とは再会が出来なかった。
五年近くも家族と離れて暮らしていたフレデリックの思いはひとしおであった。
父や母との抱き合ったままの長い再会の挨拶だっだ。
フレデリックは両親と片時も離れていたくない気持ちが溢れ、言葉にならないほどの気持ち
をフレデリックも両親も感じていたのであろう。
チェコ語でカルロヴィ・ヴァリ(Karlovy Vary)は、
(チェコ・ボヘミア西部の都市。ドイツ名のカールスバート
(Karlsbad, Carlsbad)という呼称もよく知られる。世界的に有名な温泉)
パリとワルシャワの中間の位置しドイツ国境に近い国境を越えるとドレスデンである。
そこには、神に感謝している様子が見えるようなフレデリックの心からの笑顔があった。
1835年はショパンの人生の中で最も思い出に残る夏となった。
両親の変わらない声や仕草を見つけるとフレデリックは嬉しかった。
お互いにやさいく労わり合うかと思えば、大きな声で「おい!」と、気安く呼び合っりと、
当たり前のような親子の時間が当たり前でないことが、5年の苦労の歳月でフレデリックはわ
かるようになった。そして、両親は変わらず自分に接してくれるが、姿はいつの間にか少し
老けていたことに気が付かされたフレデリックであった。
この温泉保養地でフレデリックは母と腕をくんで散歩した。フレデリックはこの時のことを「最高の幸せ」と表現した。
食事を共にし幸せを思う存分味わい互いの思いをいつまでも話ていたいフレデリックだった。
ウィーンやパリで身長が伸びたフレデリック、フレデリックは苦労はしたが幸せの意味が分
かる大人になっていた。
別れを惜しみながら三週間の滞在で両親は帰国した。
夢のような甘い時間を過ごした後、フレデリックは現実に帰り、パリまでの岐路の途中で
トゥーン・ホーエンシュタイン男爵の館ジェチーン城に立ち寄り、男爵の二人の息子と娘を
ショパンはレッスンをしていくらかの報酬を得た。
そして、次にドレスデンに赴き母の遠縁であるヴォジンスキ家を訪ねたショパンだった。
発祥は、14世紀半。チェコ最大の温泉地として有名なカールスバート。
ボヘミア王で神聖ローマ皇帝のカール4世(ボヘミア王としてはカレル1世)によって発見された。
18世紀以降は温泉地として発展を遂げた。19世紀になると鉄道の開通により、ウィーンなどから多数の湯治客が訪れるようになった。
ショパンが行った19世紀の頃はハプスブルク帝国の富裕層のための「リゾートを兼ねた湯治場」であった。
第一次世界大戦後のチェコスロバキア建国に伴ってオーストリアから切り離されたことにより、ハプスブルク帝国の富裕層のためのリゾート地を終えた。第二次世界大戦後に一般住民
に開放され映画祭を開催するなどして街は発展を遂げた。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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