ショパン、ドレスデンのポーランド貴族の親戚から…

ショパンはカールスパートで親子で幸せな夏の休暇を過ごした後、

ドレスデンのヴォジンスカ家を訪ねた。当時16歳になっていたマリア譲にショパンが求婚し

た相手と語られて来たがショパンの言葉としては残っていない。

ヴォジンスカ家はショパンの没落貴族の母の親戚であったことで、ショパンが当時置かれた

立場は、精神的にも経済的にもヴォジンスカ家との付き合いは自身が下僕と語るようにショパ

ンにとって辛い立場だったことは伺える。

ショパンは有名になったものの借金を抱えていた。当時ハプスブルク家の保養地であったカ

ールスバートではショパンは親子の幸せな時間を持てたものの、音楽活動の確かな足がかりがつかめなかったのではなかろうか。

ショパンは頼れるところへ身を置くしかないと考えたのかもしれない。

9月に入り、ヴォジンスカ家のマリアからショパンに夏に会った時の事とその後のことが書かれた便りがショパンに届いた。

それはこうである、何か、寒々とした文面であり、とても恋文には程遠いものである。

16歳のマリアの後ろにはヴォジンスカ夫人がヴォジンスカ家として言うべきことで、言いず

らいことをマリアに言わせているような駆け引きが見え隠れする。

ショパンはヴォジンスカ家にとっては使用人である、その使用人に手紙など私たちは本来な

らば書きたくもないし、使用人からの手紙など貰いたくもないわ、という意味の書き出しの

文面は読んでいるほうが寒い気分になる。

その関係性は、ショパンにマリアとマリアの兄弟もピアノを習っていたがショパンのことは

「あなた」と呼び決して先生とは呼ばないところに家柄の力関係がうかがい知ることが出来

るのだ。年端もいかないマリア嬢がショパンを下僕として扱っていることが言葉の端々から

わかる。そしてそれは、子供の頃から母親と同じような口ぶりをするのが貴族というものである。

ショパンには芸術家としての自尊心がとても強かったことはショパンの今までの言葉が性格

を表している。

そうなるとヴォジンスカ家のマリアとはどの道上手くいかなくなったのは当然のことのようにも見えるのである。

ショパンはそれとも、そういう関係性に耐えることに慣れてしまったのか、お金のためだけ

だったのか、ショパンはヴォジンスカ家のことはパリに来てから「いい人たちですよ」という言葉に留めていた。

ショパンの本当の心はショパンは曲の中に込めたのであろう。

ショパンは大切な自分の思い出や能力もその全てを音楽に傾けるしか生きる道がなかった。

人の良し悪しは、ショパンの家族も含めた本人が、どうあるべきかが、わかっている人間であり、人は置かれた立場から違うことをそれぞれ考えているときがある。

マリアは、ショパンがパリへ帰ったことを家族そろって涙したことを長々と書き記してい

る。なぜ、それほど、長く説明しなくてならなかったのか、

それは、駆け引きである。

ショパンがお金に困っていることを助けてもいいが、あなたは本当にマリアが好きなのです

か?私たちはあなたのような才能はありません、しかし私たちにもお金だけではなく心とい

うものがあるのですよ、私たちはいい人なんですよ、と言うことをマリアというより、ヴォ

ジンスカ夫人が言いたかったのであろう。それを敢えてマリアに書かせたのであろう。

そして、あなたの教え方にも一言も二言も言いたいヴォジンスカ家であった、それを

マリアを使って、マリアの兄のアント二イの相手をショパンにもっと上手くやるようにと

長々と説明している。

ショパンはカールスバーグで避暑には費用が掛かったのである。パリからドレスデンまで2200kmである(片道12日間)。 両親を見送ったカールスバードからポーランド国境のラッシェまで700kmである(片道で3から4日)。

馬車の運賃やホテル代金3人分などなどにかかった費用は不明だが、ショパンはパリを出てか

らおおよそ57日間以上はパリには帰れなかった。

ショパンはワルツ「別れのワルツ」をこの一家に置いて行った。

ショパンは、分け与える人であった。

(Pour Mlle Marieとショパンがサイン、ワルツ第9番変イ長調作品69-1フレデリックが

1835年に滞在先のドレスデンを去る際に作曲したワルツ。

生前には出版されず、1853年にユリアン・フォンタナによりショパンの原稿に手を加えて出版。マリア・ヴォジンスカとの「別れのワルツ」(Valse de l'Adieu、the Farewell Waltz))

そして、マリアが歌も習っていたため、ショパンは歌曲「乙女の願い」もマリアに挙げたのであった。

けれどマリアはポーランドで流行った「闘士」

(蜂起前の雰囲気の中で作成された。 姉ルドヴィカに送付された。

ウィーンでショパンが彼が参加することを許されなかった蜂起を生きていたことを証言している。彼は彼のあらゆる動きに続き、彼はあらゆる勝利または敗北を経験した。

ショパンの音楽はその歌に普遍的な魅力の性格を与えた。Song Wojakはすぐに国内で広く歌われる歌になった)という曲は作曲者不明で出されたが、

ワルシャワ蜂起のことを書いた曲であり、それはショパンが書いたけれども、改ざんされて出版されていることを私たちは知っているから、「乙女の願い」もショパンが本当に書いた

としても改ざんされているのであろうから、私はそんなものは歌いたくありません。

とマリアは内情をヴォジンスカ家は知っているのですよ、とショパンに言い残したのであった。

マリアとその兄弟たちはショパンから教えを頂いていたのであるが、

しかし、そのこともショパンが教えてあげているのではなく、ヴォジンスカ家にとっては、

ショパンという使用人に教えさせてあげているのでは全く意味の違うことで、この行為が進

むと道をひとつににするか袂を分かつことになるかのところに、出くわすことになるのだ。

そして、マリアは更に親に言われて書いたのであろうか、ショパンの名に~スキと名前につ

いていないことがポーランド人であるかどうかわからない人間であると言っている。

スキがついていたらフランス人もショパンがポーランド人であると疑わないことでしょうと

まで書いて送っている。

どちらにもなれない、なることもできない状況をマリアが作っている。ショパンを追い詰め

る言葉である、マリアの言葉はこれは人として恐ろしいことである。普通の若い娘の手紙ではない。冷たい言葉を発したかと思えば、その後で、

ショパンの忘れものである鉛筆のことをマリアは「形見」と言っている。

形見とは死を予感させる言葉、そして「別れのワルツ」。

マリアは、ショパンをポーランド語で表現することを「ショペナ」と呼ぶことくらいは私の

小さな妹でも知っているのですよ、と言って手紙を結んでいるのである。

あなたはポーランド人でないのね、とマリアは言っているのである。

マリアの手紙はショパンにとって失恋の悲しみというより、ショパンが人間として残酷な言

葉に傷つけられた悲しみであったことがわかる。


街のパノラマドレスデン、1837年のオットー・ハグナーによる絵画 王家の住居

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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