ショパンはライプツィヒを訪れていた。
フェリックス・メンデルスゾーンから一緒に音楽を創ってくれないかと誘いがあったからだ。メンデルスゾーンはショパンよりも1歳年上だった。
メンデルスゾーンには姉で作曲家のファニーがいた。メンデルスゾーンの陰には作曲家としての姉ファニーの存在があった。当時は女性で職業作曲家が珍しい時代でファニーは父から女性が職業として芸術を目指すことは賛成されておらず、弟フェリックス・メンデルスゾーンを音楽家として立てるように言われていた。
ファニーはメンデルスゾーン家の音楽サロンや文芸サロンに出入りし弟フェリックスを何かと手助けしていた。
ショパンがライプツィヒを訪れたときはすでに宮廷画家のヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚していたファニーだった。
そのファニーがパリで有名になったショパンに興味を持たないわけがなかった、彼女はショ
パンの演奏の悪評を公表した。
ファニーの負けず嫌いな性格なのか、それともそうすることで一家をあげて弟フェリック
ス・メンデルスゾーンよりショパンに秀でて欲しくなかったのか・・・ここにもひとつもふ
たつも嫉妬の嵐が吹き荒れていたのだった。
そしてここが肝心である、人間の醜さが出てしまっているのだ。
フェリックス・メンデルスゾーンはファニーに「あなたはショパンをよく理解できていない
ようですね、私はショパンの演奏は魔法のようだと思いますよ」とさらりと言ってのけ、
本心では、良い評論を書いてくれてありがとう、さすが私の姉と思っている弟だったのだ。
そして、本当は自分はショパンの腕前くらい評価するのは簡単ですよ、こんな風に書けるのですよ、彼は独創的で、立派な大家で、完璧な名手だと褒めちぎりショパンの音楽の
偉大さを褒めているが、それは自分自身を褒めているメンデルスゾーンであったのだ。
メンデルスゾーンは、自作の完成できない曲をショパンの手と才能を借りてなんとか出来ないかと思っていたのであろう。ショパンの完璧さを盗むため、メンデルスゾーンはショパンを1日中引き留めてよくよく観察し検証したのであろう。メンデルスゾーンはショパンが旅で疲れていようがおかまいなしといった具合である。それより自分の欲望のままショパンをどうにか使いたかったメンデルスゾーンの野望が見え隠れする。
メンデルスゾーンは自分の思い通りになったため、その日の事を有意義な日であったと姉に報告した。それは、姉に「あんなことを書いて」と言いながら「よくやった」と思う二面性のあるメンデルスゾーンの姿であった。
メンデルスゾーンと言えば、その陰にいた姉のことを一緒に考えずにはいられない。姉の名前は、メンデルスゾーン=ヘンゼル ファニー ツェツィーリエ 。
弟フェリックス・メンデルスゾーンは子供のころから姉とともに音楽を作ってきた。
姉に相談して曲を作り、姉も曲を膨大に残している。姉びいきのメンデルスゾーンは、ショ
パンのことを、他の音楽家と比べて道徳と悪を合わせる者や中途半端な名人や半古典主義に
走る者でなく、ショパンは、自らの地位をもった人物であると称している。
しかし、そのショパンの地位は、自分の地位とは違うのであることは明白であるとメンデル
スゾーンは言いたいのだ。
メンデルスゾーンは改宗できるほどの財力が実家と親戚にあり、ライプツィヒ・ゲヴァント
ハウス管弦楽団の指揮者(1835)であった。
ショパン以外の作曲家を下げて、ショパンを褒め持ち上げておいてその実それよりも更に上
にいるのが私であると言っているメンデルスゾーンであった。
ライプツィヒのある日曜日の夜会演奏会をメンデルスゾーンはオラトリオ《パウルス》
を試すためにショパンを使って連弾した。
メンデルゾーンの部屋にはライプツィヒの人々が押し寄せたがそれは演奏を聴くというよ
り、パリで人気者のショパンをひとめ見るための物見高い連中であると、メンデルスゾーン
はライプチヒのお客をさげすみ、ショパンの人気を嫉んでいるようにも取れる発言をメンデ
ルスゾーンは姉にしている。
オラトリオ《パウルス》は第一部と第二部構成で2時間40分であるが、その休憩の間にショパ
ンは恐らく、自身の芸術家としての自尊心の我慢の限界を超えたのであろう、メンデルスゾ
ーンに許可なくして、新作の《エチュード木枯》と新しい《コンチェルト》を突如弾いたの
だ。そのことをメンデルスゾーンは淡々と、ショパンがライプチッヒ人を驚かせたと姉に報告しているとこ
ろがこの人の性格がわかる。メンデルスゾーンは腹が立ったのは間違いないだろう。
そして、メンデスゾーンとショパンはメンデルスゾーンのオラトリオ《パウルス》を二人で
連弾をしている。このことを、セントパウルスをイロクオイ人(ニューヨーク州に住んでい
たアメリカ•インディアン。)とカフィル人(アフリカーナー白人が黒人に対して用いる蔑
称。)のように連弾したと書いている。メンデルスゾーンは自分のことは棚にあげてショパ
ンを人種差別的に扱った発言を姉にしている。
メンデルスゾーンこのオラトリオ《パウルス》創作過程で協力者のアドルフ・ベルンハル
ト・マルクスから、異議を唱えられていため曲の完成が難航していた、そのためショパンを
呼んでショパンの協力を求めたのであろう。
この時、ショパンは出来たばかりの夜想曲作品27-2を演奏した。
メンデルスゾーンに協力したショパンは、自身の作品を出版できるためにしていたことであ
ろうが、いったいショパンのこの努力は実を結ぶのか。
メンデルスゾーンは、ショパンと一緒にシンフォニーを新たに作り君の名誉を与えるから、
この冬の間にまた来て自分の作曲の協力をしてほしいとショパンに言った。
そして、メンデルスゾーンは、ショパンに自分の書いたヘンデルの写譜を見せてその出来栄
えを自慢したメンデルスゾーンだった。
そのとき、ショパンが大喜びしたとメンデルスゾーンは姉に語っているが、ショパンはそん
なことで喜ぶはずがなかった。それより、ショパンの働きに対して、裕福だったメンデルス
ゾーンはお金に困っていたショパンに適切なお金を払わなかったのではなかろうか。
フェリックス・メンデルスゾーンのライプツィヒの家(1835-1837頃)
フェリックス・メンデルスゾーン
(1809年3年2月 ハンブルク-1847年4年11月ライプチヒ)ドイツの 作曲。
ピアニストやオルガニスト、ロマン派の音楽家、指揮者、
著名で裕福な哲学者モーゼスメンデルスゾーンの学者、銀行家、芸術家の家系でブルジョアユダヤ人 。
1847年5月14日にファニーが亡くなったという知らせでフェリックスはその衝撃で神経障害を患う。その後、公生活から撤退、スイスとドイツ南部で数ヶ月の休暇を過ごし。ライプチヒで脳卒中を起こし1847年11月4日21時24分に死亡した。
メンデルスゾーンは、ベルリン - クロイツベルクの姉のファニーと家族の隣に埋葬された。
ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル(1805年11月14日 - 1847年5月14日)ドイツのピアニスト・作曲家、ジェンダー研究家
作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの姉
1838年にはピアニストとして弟フェリックスの『ピアノ協奏曲第1番』でデビューした。
1847年5月14日、弟フェリックスの『最初のワルプルギスの夜』をリハーサル中に突如脳卒中で亡くなる。
この絵のファニーの姿は、守護聖人セシリアを真似た姿に美化して描かれている。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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