リストがショパンのアパルトマンから出てきたところを、ヴォジンスキ家のマリアの兄のア
ント二イが見ていたのだった。
ショパンの姑のようなヴォジンスキ夫人の息子アント二イは母親に似たのか、それをヒラー
にわざわざ報告したのであった。
マッシンスキがショパンと暮らすようになって以来、作曲家仲間でショパンのア
パルトマンに集まれなくなっていたというのに、リストだけが抜け駆けしてショパンを独り
占めするとはどういうことなのか、リストが悪いがショパンもショパンである、なぜ断れな
いのか理由を聞かせてもらおうでないか、とヒラーは思っていた。
そして、ヒラーは父親を亡くしてからフランクフルトに帰っていた。ヒラーは、「パリにい
ない自分であるが、パリにいなくても夢のようにたくさんの知り合いに会えるのだよ」とシ
ョパンい言いたいヒラーであった。
ヒラーはヴァイマルではフンメルに会い、デュセルドルフではメンデルスゾーンに会ったの
だよ、とショパンに話し、ショパンがメンデルスゾーンからの音楽祭の招待を受けているこ
とをヒラーは知っていた。そして、ショパンの関係の銀行家に音楽祭の事が知りたければ聞
いてみるといい、とヒラーは話した。
続けてヒラーはメンデルスゾーンとショパンのことを何処まで知っているかわからないが、
メンデルスゾーンが今度ヒラーの家に来ることになっていて、2か月程滞在することになって
いるというのだ。しかも、それは血の戦いになり、メンデルスゾーンにひどい目に遭わされるであろうとヒラーは言うのだ。それでもヒラーはメンデルスゾーンと自分は友好的な関係であるとショパンに矛盾した関係を話した。ヒラーでさえメンデルスゾーンの存在はぞんざいには出来ないのだよとショパンに理解を求めるヒラーであった。
そう話したヒラーは、愉快なことになるから夏の音楽祭でショパンにも会いたいのだと誘い出そうとしているのであった。
ヒラーはパリを出てからピアノを全く弾いていないとショパンに話しながら、リストとショパンをパリ音楽院に入れなかったケルビーニ家にショパンに会いに行くよう勧めるのであった。その
真意はヒラーはケルビーニと親交があるとショパンに話している。
ショパンはリストと会っているから、ヒラーは君はどっちに付くのだね?とショパンに言っているようなものだ。
その後で、ヒラーは自分を信じてほしいとショパンに話し、自分の母親がショパンに貰った
指輪をまるで婚約者のように大事にはめているのだよ、とその位、ショパンとの信頼関係を
ヒラーは壊したくないのだと言っているのである。
その頃、ショパンはドレスデンのヴォジンスキ家を訪ねていた。そこでショパンはマリアと
の婚約をマリアの自己申告で交わされたことになってしまった。
ショパンはパリへ帰る途中で、シューマンからの懇願でライプツィヒへ立ち寄り、シューマ
ンの家を訪ねた。
ショパンはシューマンに酷評を雑誌に載せられては困るので、シューマンの誘いは断れない身であった。
シューマンは自分の思い通りにショパンが家に来たことがおもしろかったのだ。
そして、ショパンの新曲であったバラードト短調をショパンからシューマン貰ったことにしたかった。この曲はショパンは1831年から5年がかりで完成させた曲だった。
シューマンはそれだけでは飽き足りず、新しい練習曲と夜想曲とマズルカもショパンに弾くように頼んだ。その時、シューマンからショパンへのお返しの演奏はなかった。
そして、シューマンはショパンはどの曲も他とは比べ物にならない素晴らしい曲であり、、
しかもショパンが椅子に座った姿を見るだけで感動するほどうっとりするとショパンを持ち
上げるだけ持ち上げたかと思ったら、すぐにその後で、
「ショパンよりも数段偉大な名手がいますよ、それが私の恋人のクララである」と、シュー
マンの二重人格ともとれる発言が続いたのである。
それとも、何としてでもショパンを蹴落としたかったシューマンだったのか。シューマンは
以前、ショパンの悪評をヒラーに止められ、「ショパンは天才」と書き換えた過去があるた
めそれを根に持っていたのであろうか、それとも、すでに言われているように統合失調症の
精神障害の症状が出ていたのかもしれないシューマンであった。
ドレスデン(1836年)
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
0コメント