パリの社交界で作曲家でありピアニストとして脚光を浴びていたショパンやリストだった
が、1836年になるとタールベルクが1835年の11月にウィーンからパリにやって来て活躍する
ようになってきていた。タールベルクは既に、1828年にショパンとメンデルスゾーンに
会ったことがあった。
タールベルクはあのカルクブレンナーにも習っていた経緯があった。
リストがパリでの自分の人気に油断をして愛人と旅行三昧をしている隙にタールベルクがパ
リではもてはやされるようになっていたのだ。
人気というものは流行のようなもので人々は移り気で不確かである。いつの世も対抗馬が現
れると人気者の座は常に脅かされるものだ。タールベルクは1835年11月にオーストリア大使
ルドルフ・アポニー伯爵邸での私的演奏会で演奏したり、1836年1月にはパリ音楽院の演奏会
で《大幻想曲 Op.22》 を演奏した。この時、ロッシーニやマイアベーアにタールベルクは支
持されたのだ。また、タールベルクはシューマンから酷評を受けたことが原因で対位法の作
曲の技法を少なくすることでシューマンのご機嫌も取り、ベルリオーズからも賞賛を得てい
た。1830年になると、タールベルクはショパンとは違い、パリで多数の有力者のバックアッ
プを得て1836年4月パリでのデビュー演奏会で大成功を収めていたのだった。この公演の収益
は1万フランだったと言われている。リストが愛人と遊んでいる間にタールベルクは着々とウ
ィーンそしてパリで成功への階段を上ってきていたのであったのだ。
そういう訳で、リストが自分の人気をさらわれて焦らないわけがなかったのだ…
リストはスイスの旅からパリにもどって、その時の心情をジュネーブに住む愛人のダクー伯
爵夫人に告白している。
「私がもの思いに沈んでいるように見えると母は心配するのだ。
しかし、タールベルクの存在は私の作曲家として、そしてピアニストとしての活動を脅かす
のである、私はいてもたってもいられないのだ。」
そして、リストは母に頼んであったように、ショパンに会ったのだ。
ショパンはリストに対してとてもやさしかったようだ。リストの母親からショパンは頼まれ
ていたから尚更だったのか真意は不明だが。
リストが言うには「ショパンは私と同じく、タールベルクのことは批判的であり、
また、ショパンは私にとてもやさしく、ショパンは話をしながらピアノを演奏したのだ。」
おそらく、リストに泣き付かれたショパンはタールベルクを弾いて見せて解説しながらリス
トに説明したのであろう。そにうえで、どのような曲を書けばリストにとって優位になる
か、あらゆる人間観察にも長けていたショパンはリストのために考えてくれたのであろう。
リストは自分がショパンの時間を独り占めしたことに満足だったと愛人ダグーに告白。そし
てリストは、ショパンが自分を愛してくれるとダグーに語っているが、ショパンは損得勘定
ではなく父ニコラスが道徳を息子に教えたように、音楽に愛を持っていたからこそリストに
というより音楽に誠実だったのであろう。
しかし、この関係は簡単にこの先壊れることになってしまうのだった。それは、リストのシ
ョパンへの裏切りだったと言われている。こういうことを恩を仇で返すと言うのだろう。
そのことは友人の作曲家ヒラーもショパンとリストの関係を心配したのであった。
ジギスモント・タールベルク(1812年1月8日 - 1871年4月27日)
スイス・ジュネーヴ近郊のパキスに私生児として生まれ、フランクフルト・アム・マイン出身の両親の元に生まれたという誕生証明が存在するらしいが偽造である。
母はマリア・ジュリア・ウェツラー・フォン・プランケンシュテルン(ウェツラー男爵夫人)、父はオーストリアの名門貴族フランツ・ヨーゼフ・フォン・ディートリヒシュタイン伯爵の息子として育てられた。
子どもの頃の音楽教師の名は不明。母がタールベルクに最初の音楽教育を施した可能性がある。少年期には、ピアニストのモシェレスにロンドンで学んでいる。1826年5月17日にロンドンでデビューした。その後、フンメル、カルクブレンナー、ツェルニーに習った。
1830年ウィーンでメンデルスゾーン、ショパンに会う。1835年11月オーストリア大使ルドルフ・アポニー伯爵邸の私的演奏会で演奏。1836年4月パリの演奏会で成功を収めた。
1837年リストによりタールベルクの作品の酷評を雑誌に掲載。同年2月タールベルクは初めてリストの演奏を聞いて驚く。同年5月彼はロンドンで演奏会を開く。
1839年《ロッシーニのモーゼによる幻想曲 Op.33》 出版。
ロンドン滞在を終えてイギリス各地でツアー・コンサートを開いたが病気になり中止、
ウィーンに帰る。
1838年4月ウィーンでツアー・コンサートに来ていたリストを食事に招く。
モーリッツ・フォン・ディートリヒシュタイン伯爵(フランツ・ヨーゼフの弟)と共に会食した。
伯爵は「カストルとポルックスの2人と一緒だ」と喜んだと言われている。
翌日、2人はメッテルニヒの客人として再び同席している。
リストのウィーン滞在中、タールベルクはリストに取り入り自身は演奏を封印。
1843年イタリアのオペラ歌手ルイージ・ラブラーケの娘と結婚。
1858年のアメリカ演奏旅行後にイタリア・ナポリ近郊のポジリポ移り住む、4年間活動をしなかった。1862年演奏活動を再開。
1863年のブラジル演奏旅行を最後にピアニストとしての活動から引退。
1871年ポジリポで亡くなる。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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