CHOPIN、ショパン、ピアノは何処へ・・・

ショパンはパリのワルシャワ高校時代の友人、ヨーゼフ•ブルゾウスキに招待状を送った。

1836年12月13日のことだ。

サロンの夜会に2、3人のショパンの友人とがサンド夫人が来て、リストと歌手のアドルフ・ヌリーも演奏するので是非お越しくださいとショパンは連絡した。

夜会の出席者の中にサンドの名前が挙がるようになったのはこの頃でからだ。

しかし、ショパンはヴォジンスキ夫人と親交があったころからサンドとも既に知り合っていた可能性が高いのである。

時は、1837年に移っていた。

スルゼーヴォのヴォジンスキ夫人からフレデリックに恐怖の便りが届いた。

ヴォジンスキ夫人の文章はショパンの精神上よくないことは間違えないのである。

ショパンはヴォジンスキ夫人のご機嫌取に早速楽譜を小包でヴォジンスキ夫人へ送ったのである。ヴォジンスキ夫人は自分が送るように圧力をかけておきながら、今度は、豪華なすでに製本してある楽譜をなぜ送ってきたのかとショパンに難癖をつけたのである。

ショパンは丁寧に贈ったつもりであったことをヴォジンスキ夫人はこの豪華な楽譜のお金を払うのは自分だから、なぜ前もって金額を言ってこないのだと怒っているのである。

ショパンが何をやっても夫人は気に入らないのである。

ヴォジンスキ夫人はショパンの自筆譜の小品つまりマリアでも簡単に弾ける短い曲を

ただで欲しかったのであろう。それがショパンが送ってきた物は立派に製本されている楽譜だったのだ。さすがの夫人もただでくださいとは言えないのだ、そこで何かと言いがかりをつけるヴォジンスキ夫人は、

「あなたのしたことはこれを買ってくださいと押し売りのようなものだ」とヴォジンスキ夫人はショパンに言ったのだ。

ショパンはヴォジンスキ夫人に贈ったつもりでお金のことはこの時考えていなかったはずだ。それでなくとも、いつも、父ニコラスから、「おまえは気前がよすぎる」と言われてきたフレデリックだ。

そして、ショパンは、9月の時にヴォジンスキ夫人がスルゼーヴォにある夫人のピアノが壊れていて息子のカシミールが弾けないと言っているからショパンに何とかならないかと話を持ち掛けけられていた。ショパンは言葉で詫びるだけではヴォジンスキ夫人に取り入るのは困難で追い詰めれれていたため、楽譜だけではなくピアノを夫人に送った。

ピアノは当時のダンチッヒ(現在ポーランドのグダニスク)にまずは送るようにショパンに

ヴォジンスキ夫人は指図してきている。そしてそこへアドルフという名の使いを行かせて、

荷馬車でスルゼーヴォのヴォジンスキ家まで運ばせるという計画であるとショパンに伝えた。

ヴォジンスキ夫人は少しでも思い通りにならなければショパンをヒステリックに叱咤し、

その一方でのヴォジンスキ家や自分の気を引く話を持ち掛けておいて欲しいものは奪うとい

ったところか。ショパンへの要求はエスカレートしていた。ショパンはポーランドの家族の

ためにヴォジンスキ夫人のご機嫌を取るしかなくただただ必死であったのだ。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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