ヴォジンスキ家と別れたショパンは芸術家が集まるサロンでジョルジュ・サンドと知り合ったが、実はそれはヴォジンスキ家からのさしがねでありリストのショパンへの追い落としの罠でもあった。
ショパンはヴォジンスキ家との付き合いに開放されたことで、ショパンの取り巻く環境が良い方向へ転じたわけではなく、スカルベックの監視下にあることは変わらず、スカルベックが糸を引く監視係がヴォジンスキ夫人からジョルジュ・サンドに変わっただけだった。
サンドはショパンより6歳年上で1804年にパリで軍人貴族の父と農民の母との間に生まれた私生児である。1822年にカジミール・デュドヴァン男爵と結婚し、子供にモーリス(Maurice、1823年 - 1889年)、ソランジュ(1828年 - 1899年)がいた。サンドはショパンと知り合う以前から夫のデュドヴァン男爵と別居していた。
サンドは複数の有名な芸術家と関係を持ったことで有名な女であった。
それはサンドがそういう役目の女だったのか、それとも恋愛多き女なのか、私生児であるコンプレックスからか愛に飢えていて男女関係がルーズだったのかいずれかであろう。
ショパンがサンドと知り合う前は、サンドはリストと関係を持っていた。
そのため、リストの愛人ダグー伯爵夫人はサンドに嫉妬心を抱いてのだ。
1837年3月28日サンドはリストへ自分の別荘ノアンへ来るように招待状らしき文を送った。
そこには、サンドがリストに早くノアンに来てほしいと伝えている。
ライバルの女ダグー伯爵夫人のことを、あの女は体が悪いが自分はいたって体が頑丈で元気なのだとダグーを下げて自分をリストにアピールするサンドであった。
そして、気の多いサンドはすべての芸術家の男が自分の物にならないと気が済まないのである。
サンドの次のターゲットはショパン.。リストの愛人でもあるマリー(ダグー伯爵夫人)がショパンをサンドのコレクションに加えてはどうかと言っていると大胆にもリストに話し、リストにショパンを自分のために連れて来るよう指図したサンドであった。
そのうえで、それをマリーのせいにして、マリーがショパンを好きだから「ショパンなしでは生きられない」とマリーが言っていると、リストがマリーを嫌いになるよう仕向け、ふたりの中を引き裂いたところで、リストもショパンも自分のものにしたいサンドであった。
そして、
ショパンがワルシャワの頃からのポーランドの革命派の仲間だったであろう、ヴォイチェフ・グシマーワ伯爵もまたパリに亡命していた。グシマーワは1826年から1829年までスタニスワフ・スタジッチの反体制派の愛国協会に入っていた罪で拘束されていたことがあった。またグシマーワは11月蜂起の時、パリでロシア側の武器の供給交渉に従事させられたことがあった。
そのグシマーワもサンドと繋がりがあった。ノアンの集まりにグシマーワも誘ったとリストにサンドは話している。
そしてサンドにとってライバルであるダグー・マリーではあるが、マリーが集める友人はすべて自分の友人であるとリストに言い、サンドは人気は全部自分のものにしたいと思っているのであった。
ショパンはリストからの間接的なサンドのこの最初の誘いには応じなかったのだ。
ショパンは、ヴォジンスキ家と別れたと言っても、まだすっかり縁が切れたわけではなく、ずるずると残り火が消えず続いていたからだ。
4月5日になると、ショパンはナクワスカ夫人からヴォジンスキ夫人に宛てた便りを装った手紙の中でヴォジンスキ夫人に、ヴォジンスキ夫人の母親が亡くなったことへのお悔やみの文章を書いている。
「奥様の母上とは面識はございませんため特別の悲しみは下僕のわたくしにはございません。しかしながら、ヴォジンスキ家の方々と親しくさせて頂いておりますわたくしといたしましてはお悔やみを申し上げます」ショパンはそういう意味を述べている。
そのあとで、「我々、ヴォジンスキ家を忘れないで」といつもヴォジンスキ家に言われてきたショパンは、マリアのことも気になって思い出しているとヴォジンスキ家を敬いながらも、本心はそこになくそれ以上は書けない自分がそこにいたため、
「書くよりもポーランドのスルゼーヴォにいればもっと上手く自分は話せます」とヴォジンスキ夫人が何が気に入らないと言ってくるかわからないので、ショパンは言い訳も込めて、難しいヴォジンスキ夫人の反感を買わないように書いた。
一方ちょうどその頃、サンドは4月5日にダグー・マリーへ宛てて、ノアンの館に集まるようにマリーに人を集めて来て下さいと指図しているサンドである。
そして、サンドは自分が愛しているのはグシマーワであり、ショパンには尊敬していると伝えるようにマリーに書いて、マリーを利用しながら油断させている。
サンドは計算高くリストの誘いに応じなかったショパンを今度はマリーを使ってノアンに来させようとしているのである。
「マリーの友人は全部私の友人よ」とサンドはマリーの人気をもすべて自分のものにしようと企む下心が丸見えの悪い女なのだ。
ヴォイチェフ・アルバート・グシマーワ(1793年4月 23 日 ポーランド- 1871年12月 16 日)
Grzymałaで生まれた。現在のDunaivtsi、ウクライナ
ポーランドの 兵士、政治家、銀行家。
1807年高校卒業後1807年にナポレオンによって作成されたワルシャワ公国の時代に軍事訓練を受けた。グシマーワはボロジノの戦い(1812年)のロシア軍に参加し勲章を受けた。
1820年代の間にポーランドの政治やフリーメーソン積極的に関った、彼はスタニスワフ・Staszicの葬儀で主となり雄弁に語った。1828 - 9年に彼はポーランドの(愛国協会)に加入したために サンクトペテルブルクの牢獄に投獄された。
1830年11月蜂起ではパリで兵器の供給交渉に国家ロシア側として従事した
1830年11月の暴動の発生後、彼はポーランド銀行の取締役に任命された。その後、彼は国外
の反政府勢力との交渉と財政的支援の交渉ために、ベルリン、ロンドン、パリへの外交使節団のために国家政府から命令された。
フレデリック・ショパンとはショパンのワルシャワ時代の1830年から既に知り合いで、ショ
パンの演奏会の評論を幾度か書いて公表している。パリに亡命したグシマーワはショパンと
親交を持った。そのほか、ドラクロワやジョルジュ・サンドの仲間である芸術家とも親交を深めた。
1871年にジュネーブのニヨンで破産し死亡した。
フランツ・リスト(1811-1886)とジョルジュ・サンド(1804-1876)
ノアンの館でジョルジュ・サンドの息子モーリス・サンド(1823-1889)の絵による風刺画 1832年
テオドール・シャセリオー(1819年9月20日 - 1856年10月8日)によるマリーの肖像画
マリー・カトリーヌ・ソフィー・ド・フラヴィニー(1805年12月31日 フランクフルト・アム・マイン - 1876年3月5日 パリ)
ダニエル・ステルンというペンネームで作家・ジャーナリストとして活動。フランツ・リストの愛人で有名、また、コジマ・リスト(リヒャルト・ワーグナーの妻)の母である。
父親は亡命フランス貴族のA.V.F.ド・フラヴィニー子爵。フランスで教育を受け、10歳でフランクフルトの修道院で過ごした。16歳の時に修道院を出る。
1827年にダグー伯爵(1790年 - 1875年)と結婚。伯爵との間にはルイーズ(Louise, 1828年 - 1834年)、クレール(Claire, 1830年 - 1912年)の2人の娘を授かるが、1835年に離婚。
1835年から1839年までフランツ・リストとジュネーブやイタリアで同棲。
リストとの間に、ブランディーヌ(Blandine, 1835年 - 1862年:エミール・オリヴィエと結婚)、コジマ(Cosima, 1837年 - 1930年)、ダニエル(Daniel, 1839年 - 1859年)の1男2女の3人の私生児を産んだが貴族階級であるマリーは育てず乳母の手にゆだねられた。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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