ショパンを語るにはサンドなしではいられない。
ジョルジュ・サンド、 その名はペンネームで知られている。彼女の本名は、アマンディー
ヌ - オーロア - ルシルデュパン。
サンドは、1822年にカジミール・デュドヴァン男爵と結婚、息子にモーリス(1823年 - 1889
年)、娘にソランジュ(1828年 - 1899年)の二人の子供がいた。娘のソラジュは拾った子供
であるという説もあるが事実は不明、1831年に離婚。
1832年にジョルジュ・サンドという名前をフランス人作家のジュール・サンドから取って、
サンドは女流作家としてデビューした。ジョルジュ・サンドはジュール・サンドの恋人であ
り秘書でもあった。1831年に5巻から成る小説『Rose et Blanche』を二人の共著として出版
したが、ジュール・サンドとジョルジュ・サンドの関係は長くは続かなかった。
ジョルジュ・サンドの系譜を辿ると、ジョルジュサンドの父の名は、モーリス・デュパン、
曽祖父はモーリス・ド・サックス(1696-1750 庶子)高祖父アウグスト2世(1670-1733)。
ジョルジュ・サンドの母の名は、アントワネット・ソフィーヴィクトリーデラ ボルド(1773-
1837)は、士官に仕えた将軍ジョアシャン・ミュラ=ジョルディ(1767年3月25日 - 1815年
10月13日)の情婦であった。
その士官とは、サンドの父のモーリス・デュパンであり、フランス軍のリーダー騎兵中隊
1778年から1808年騎兵中隊のリーダーであった。
サンドの母方の高祖父はフリードリヒ・アウグスト1世(1670-1733)、
サンドの母方の曽祖父ザクセンのヘルマン・モリッツ・ザクセン(1696年10月28日生まれ
- ゴスラー、ドイツ、1750年11月30日ロワール=エ=シェール、フランス、54歳で亡くなった。)
1808年に父モーリス・デュパンが亡くなった時、サンドは4歳だった。
サンドは父方の祖母のザクセンのマリー・オーロレ・フォン・ザクセン、 1748-1821に16歳
までノアンで育てられた。
1808年サンドの母アントワネット・ソフィーヴィクトリー・デラ ボルドはスペインの戦争で
夫が亡くなり生活に困っていた。夫に仕えた将軍ミュラとの男女の関係がいつからだったか
ら不明だが、サンドの母はミュラ将軍の住むスペインはマドリードの王宮へ4歳になる娘サン
ドを連れて行ったのだ。
そして、謁見が許されたサンドの母アントワネット・ソフィーヴィクトリーデラ ボルドは
サンドにナポレオン軍の忠誠を誓う意味で4歳の娘に軍服を着せ将軍を喜ばせたのである。
しかし、戦争で夫を亡くしたばかりのサンドの母の真意がナポレオン軍の忠誠だったかは何
とも言えない。なぜならサンドの母は情婦であったからだ。サンドを自分のような女になっ
てほしくなかったのではないか。
子供のころは服装で男の子か女の子か一見わからない場合がある。もしかしたら、母親は自
分の子供は男に媚びないと生きていけないような女になってほしくないと願っていたのでは
ないか、そして「私の子供は男の子です」と将軍に見せたのかもしれない。
サンドの男装は、その頃に母から刷り込まれたものであったのだ。しかし、大人になっても
男装を続けたサンドには現実的な理由があった。それは貧乏であったからだ。つまり、サン
ドは金銭的にショパンのパトロンとは言えないのである。
パリの社交界で女として名を上げるには華やかな衣装にお金がかかりすぎるのである。
サンドは男性優位なパリの社交界で女として競争に勝つにはサンドは不利であったのだ。
男装で女性を油断させ、有名な男性に近付いて、実は女を売って男性の能力を踏み台
にして生き延びたしたたかな女なのである。そして、男性遍歴を繰り返したサンドは女性の
反感を買わないように、女性の権利を主張しながら女性からも支持を得ようとしたのでる。
サンドはパリでの3年間過ごした後、1821年12月26日に祖母が亡くなり、ノアンに戻った。
サンドは祖母の財産であるノアンの館を受け継いだのだ。そこからサンドのサロンの怪しい
集まりがスタートしたのであった。
1838年4月サンドは画家のドラクロアをノアンのサロンの夜会に招こうと招待状を書いた。
ドラクロアもサンドのお気に入りの芸術家の中のひとりだった。
この頃、ドラクロアはギリシア神話を題材にした大作『メディア』の制作中であった。
サンドはドラクロワの気を引くように書いている。
「私は明日の朝5時に出発します。ですから、その前に、あなたの壮大なメディアのお話を
聞かないで出かけたくないのです。
あなたのメディアは見事で心に響きます。あなたは確かに素晴らしい絵描きです。
今晩あなたが私のノアンの館においでになる決心をしてください。
私たちは少数のグループで秘密で集まります。そこへ、ショパンも遊びに来ます。
このような集まりでのショパンの演奏は本当に崇高です。 あなたが眠くないのなら深夜に来でください。
そしてあなたが誰かにもしも会っても、このことを一言も漏らさないでください。
ショパンはとても用心深く部外者を恐れています。 さようなら。 もしも、
あなたが来ない場合でも、私にあなたの愛を少しだけ分けてください。」
よく読むと如何に非常識な内容であるかと思われるが、サンドはその非常識なことを煙に巻
きながらもドラクロワが喜ぶようにうまく誘い出そうとしている。
ただものでないサンドである。
ジョアシャン・ミュラ=ジョルディ(1767年3月25日 - 1815年10月13日)
フランスの軍人で、元帥。ナポリ王国の国王(両シチリア王)ジョアッキーノ1世( 在位:1808年 - 1815年)アブキール、アイラウ、ドレスデンなどでの突撃で名を馳せた騎兵指揮官。
第一統領ナポレオン・ボナパルトの妹カロリーヌと結婚し、ジョアシャン=ナポレオン・ミュラと改名した。帝政期には皇族として遇され、1806年 - 1808年まではベルク大公爵およびクレーフェ公国の君主であり、1808年から1815年まではナポリ王だった。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
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