CHOPIN、ショパン、長いものに巻かれない

ショパンが1837年のロンドンの旅へ行く前の出来事であった。

パリでショパンは旅券の更新をしなくてはならなかったが、パリに来て以来、更新されずそ

のまま放置されたままであった。

ショパンは11月蜂起で逃げて来た反体制派のポーランド人貴族の難民との交流があったため

ショパンは革命派と見なされパリの旅行者の秘密警察のブラックリストに名前が挙げられて

いたのだ。そのため、国外への旅に制限が掛かるであろうと、パリのロシア大使であったポ

ッツォ・デ・ボルゴ伯爵からショパンに「ロシア皇帝の宮廷ピアニストの称号を与える」と

いう話が持ち掛けられたのだ。

ショパンは、父ニコラスから「おまえは11月蜂起のときにポーランドにいなかったのだから

革命派に数えられないようにくれぐれも気を付けろ」と言われていたフレデリックだっだ。

しかし、ショパンが選んだ道は、ロシアの宮廷演奏家の道ではなかったのだ。

人生の岐路でショパンは自分を曲げない精神の強さをみせつけたショパン。

自己の名誉よりポーランド難民の仲間とポーランド人としての誇りを選んだショパンだっ

た。

「私は11月蜂起に参加はしませんでした。しかし、私の心は革命家の人々と共にあった。

ですから、私もパリのポーランド難民の中のひとりです。ですから、ロシアの称号を受ける

わけにはいきません」ショパンの返答に迷いはなかった。

ショパンの意思の強さがここでもクローズアップされたのである。

ショパンは、長いものに巻かれて生きる人ではなかったのだ。従うほうがショパンには屈辱

であったのである。ここでもショパンの性格が伺えるのである。

この出来事の後でショパンがどうやってロンドンの旅をしたのかは事実は不明であるが、

ショパンは秘密の旅だったことやホテルでの宿泊が偽名だったことなどから、

旅券の書き換えや旅券の発行は滞りなく出来たのであろうか謎が残る。

しかしながら、なぜかショパンのパスポートが現存している、本物かはわからない。

ショパンは、忘れようとしていたヴォジンスキ夫人から、ショパンへの最後通告の便りが1838年春に来た。

「私のフレデリックへ、あなたの沈黙を破るが 許すように。

あなたの健康はどうですか。

あなたの両親と姉妹に私はあったが元気そうでした。あなたの父は少し咳をしていました。

あなたのワルシャワ時代親交があったポーランド詩人ユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴ

ィチの歴史歌を増刷すれば、人々はそれを買い求めるでしょう。あなたはそれらを新鮮な音

楽に作曲するべきです。

それらを出版したら、ポズナン地区でホットケーキのように売れることでしょう。私はそこ

にあなたが姿を現すと確信している。

この計画に対して、あなたが熱狂的に受け入れてくださると思います。あなたがどうするか

に関わらず、あなたは学ぶことが出来ます。

私の提案が受け入れられるか受け入れられないかの答えの返事をください。

あなたの現在の健康状態と体重を教えてください。

神は あなたを祝福する でしょう。」

ヴォジンスキ夫人はショパンに最後通告としてロシア寄りになるように一緒に仕事をしようと勧誘したのだ。しかし、ショパンが応ずることはなかった。



≪ショパン、1837年から1838年に書かれた曲≫

24の前奏曲 1838~1839

即興曲第1番 変イ長調  1837

4つのマズルカ  1837 第18番 ハ短調 第19番 ロ短調 第20番 変ニ長調 第21番 嬰ハ短調

スケルツォ第2番  1837 変ロ短調

2つの夜想曲   1837 第9番 ロ長調 第10番 変イ長調

2つのポロネーズ 1838~1839 第3番 イ長調『軍隊』 第4番 ハ短調

4つのマズルカ 1838~1839 第26番 嬰ハ短調  第27番 ホ短調  第28番 ロ長調  第29番 変イ長調

ピアノソナタ第2番 変ロ短調『葬送行進曲付き』 1837に第3楽章を書き上げる(1839年ノアンで完成させた)


ショパンのパスポート フランス警察発行 1837年7月7日 番号3546 

*年齢 26歳 *身長 170cm *髪 ブロンド

*額ノーマル *まゆ毛 ブロンド *瞳 灰青色 *鼻 ノーマル *口 ノーマル 

*ひげ ブロンド *あご 丸型 *顔 卵型 *肌 白色

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです