ℱ・ショパン《あやつり人形の檻(おり)帝王が隠した卑しき虚栄心》①

第4章(後編):①【あやつり人形の檻(おり) ── 帝王が隠した卑しき虚栄心】


【ヴィルトゥオーゾ工場の闇――歓迎なき街の甘き罠】

1831年、秋。パリ。

革命の熱気と商業主義の冷酷さが奇妙に同居する大都会に、21歳のショパンは、たった一人で降り立った。

ウィーンでの苦い経験を経て、大人が用意した「あやつり人形の糸」を自ら断ち切り、丸腰で生きることを決意した若き天才を待っていたのは、あまりにも容赦のない、本物の世界の冷たさであった。

ショパンはまず、ウィーンで手に入れた紹介状を携え、当時パリの音楽界で絶大な権力を握っていた60歳の巨匠、フェルディナンド・パエールを訪ねる。

面会の場となった「フランス学士院」の執務室は、圧倒的な威圧感をもってショパンを迎え入れた。高い天井、冷ややかな大理石の床、そこに響く硬い靴音。空間そのものが、異郷から来た名もなき若者を冷酷に品評し、拒絶しているかのようだった。

大理石のデスクの向こうに座る巨匠パエールは、ショパンを直視すらしない。

ロッシーニやケルビーニといった、時代の寵児たちへの紹介状を求めるショパンに対し、パエールはただ冷徹に、事務的に、次のステップへ進むための「冷たい署名」を書類に刻み、突きつけただけだった。

彼らにとって、ショパンは毎日のように押し寄せる無数の有象無象の一人に過ぎない。手紙のなかで、ショパンが彼ら巨匠たちとの面会を「ただ会っただけ」と極めて素っ気なく書き残しているのは、彼らが自分の本質、すなわち音楽を何一つ見てくれなかったという厳然たる事実を、その鋭すぎる感性で冷ややかに察していたからに他ならない。

空間の威圧感と、人間の冷淡さ。その二つの激しい洗礼を浴びたショパンは、張り詰めたプライドと孤独のなかで、さらなる巨大な壁へと立ち向かうことになる。


【巨匠の甘い罠、引き裂かれる異邦人】

パエールが遺した冷徹な署名を携え、ショパンが次に向かったのは、当時のパリ音楽界の頂点に君臨する大巨匠、フリードリヒ・カルクブレンナーの館であった。

1785年にドイツで生まれたカルクブレンナーは、この1831年当時、46歳。音楽家として、そして社交界の権力者として、まさに人生の頂点、最も輝かしい黄金期の只中にいた。

彼は正確無比な超絶技巧を武器に、オーストリアやドイツでの演奏旅行を大成功させて名声を轟かせ、名楽器メーカー「プレイエル」の共同経営者としても辣腕を振るっていた。それだけでなく、上流階級の強力なパトロンたちを巧みに味方につけることで、並の音楽家とは一線を画す、貴族まがいの富とステータスをすでに完璧に築き上げていた。のちにショパン自身もまた、その華やかな貴族社会での成功を強く意識し、同じようにパトロンに愛される道を目指していくことになるが、まさにその「持てる者」の究極の成功モデルが、目の前にいたのである。

対するショパンは、故郷のワルシャワで成功を収め、その才能の噂は専門家の間に届きつつあったものの、ここパリの社交界においては、まだ足がかりもない名もなき若者の一人に過ぎない。しかし、ショパンの誇りは高かった。経済的には厳しくとも、彼は貴族社会に生きる男としての気品を絶対に崩さず、仕立ての良い衣服を端正に着こなし、張り詰めた自尊心を胸に巨匠の豪邸の門を叩いたのである。

すべてを手に入れた46歳の帝王と、己の感性だけを武器にパリへ挑む21歳の異邦人。

ショパンにとってそれは、ウィーンでの自惚れを完璧にへし折られ、「もし、あの華やかなだけのエルツと同列に扱われたら、僕の音楽はここで終わる」という、清水の舞台から飛び降りるほどの悲壮な覚応を胸に秘めた面会であった。


「何か弾いてみたまえ」





Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです  

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