F・CHOPIN、ショパンとサンドそれぞれの思惑


ショパンはマヨルカ島の首都パルマにサンドと行くことを恋愛感情で行動したかのようにアンドレ・モーロラによるフィクション小説により語り継がれてきたが、当時の情勢やショパンのパリで革命家のブラックリストに挙げられていたことなどを鑑みると、実際にはショパンの意思決定がどこまでだったかは実際の資料がなく不透明である。ショパンは事実、パリからアメリカへ行くことを真剣に考えていたことは確かのようである。それもポーランド移民の仲間と共にである。

1838年6月にグシマーワとサンドと3人でショパンは議論したようである。

なぜ、ショパンとサンドはマヨルカ島を目指したのか…、そこから、ショパンは密かにアメリカを目指していたからサンドの話(と言っても実はマルリア二夫人フランスのスペイン領事の妻からサンドへの指令の計画)に乗ったのか?サンドは本当は誰の見方だったのか?

それとも、オペラの作曲のゴーストの仕事があったのか?それとも、ただ単にショパンの健康の療養だったのか?本当に療養目的であれば、なにも人里離れた薬屋も医者もいない生活に不便なマヨルカ島でなくてもよかったのではなかろうか…疑問が湧いてくるのである。

1838年6月にグシマーワとサンドと3人でショパンは議論した後、夏にはサンドは、若い新しい家庭教師のマルフィーユと遊んでいたのである。そういうサンドだから、ショパンを本当に愛していたかは疑問であるのだ。恐らくサンドは、その時々の自分の都合のいい方に傾く風見鶏のようなものなのであろう。

11月になって、話し合いが付いたのか、サンドとショパンはそれぞれ目立たないようにパリを発ったのであった。

スペイン国境に近いポール=ヴァンドル港で待ち合わせをして、そこから、スペインのマヨルカ島の首都パルマを目指した。

サンドはポール=ヴァンドル港に到着したことをマルリア二夫人に報告していた。

ショパンはサンドより1日早く到着していたが、ショパンが一人で旅をしたかは不明である。

ショパンは今まで一人旅をしたことがないのである。

ショパンとサンドは港で合流してから駅馬車で4晩がかりでピレネー山脈を越えて、スペインバルセロナへ行き、そこで1週間休息を取った。

馬車での山越えはショパンの体を酷使したことは間違いないのである。

そこから、更にマヨルカへ向かおうとしていたのだった。


ポール=ヴァンドル港 19世紀頃

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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