F・CHOPIN、ショパン、パルマでピアノを待ちわびる
ショパンはマヨルカの首都パルマにサンドとサンドの子供と共に到着していた。
ショパンはパルマに着いたことをショパンの友人でもあり秘書のフォンタナに報告した。
ショパンの目の前に広がる景色はまさに南国の風景であった。
南国を代表する木々、椰子、杉、サボテン、オリーブの木、オレンジの木、レモン、アロエ、イチジク、ザクロなど、自然が溢れていた。しかし、ショパンは見るものすべては初めてではなかった。それは、パリの壮大なジョルダン植物園Jardin des Plantesで観たことのある木々や植物たちであった。
「瑠璃色の海、エメラルドのような山、そして天国のような空気。
日中は太陽が照っていて、みんな夏服を着て歩き回っていて暑いです。
夜は何時間もギターと歌が続きます。巨大突出したつるのあるバルコニー、ムーアの城壁。
すべてアフリカ的な雰囲気です。
一言で言えば、≪人生はすばらしい。まだ私を愛してますか!≫そんな感じのところです。」
ショパンはこんな風にパルマの印象を語った。
そして、一番大事なことはまだピアノが届いていないことであった。
ショパンは、≪プレリュード集≫と引き換えに、ピアノをプレイエルに送ってもらうようにフォンタナに指示してあったのだ。
ピアノの到着がまだなので、プレリュードはもうすぐプレイエルに届くはずだから、ピアノをどのようなルートで発送したのかフォンタナに連絡してくるようにショパンは伝えた。
そして、更に、パルマは素敵な所であることを語るショパン。
「パルマは世界で最も素晴らしい場所です。海や山やヤシの木や
墓地、十字軍の教会、モスクの跡、オリーブの木、
千年前のものです。ああ、親愛なるフォンタナ、私は本当に生き始めています。」
ショパンはフォンタナが気をよくしてくれるように書いたが、
本当に気がかりなのは、ワルシャワの両親のことであった。
ショパンは自分がパルマのような辺鄙なところにいることは、
パリの知り合いには言わないようにフォンタナに口止めし、ショパンの両親のへの手紙をフォンタナに同封するからフォンタナの手でパリからワルシャワへ出すようにと頼んだのであった。
そして、パリの同居人だった友人のマッシンスキが病気であるから、フォンタナに彼を世話するように頼んだショパンだった。マッシンスキもパルマに来ればよかったのにとショパンはマッシンスキと一緒に居たかった気持ちをフォンタナからマッシンスキへ伝えてくれるように頼んだ。そして、ショパンはこのパルマの旅は冬が終わるころパリに帰るつもりでいたのだ。
マッシンスキへ後で手紙を出すとショパンはフォンタナに伝えたが、ショパンがすぐにマッシンスキへ書いたかは現存せず不明である。
フォンタナにはたいへん素晴らしい所で、自然を満喫している様子を伝えたショパンであったが、マッシンスキに心配かけないようにと思っていたのかもしれない。
同時にプレイエルへ宛てた文章はそれとは異なっていた。
ショパンのプレリュード集と引き換えに送られることになっていたピアノは1815年にイグナッツ・プレイエルが考案した当時まだ未発表のアップライトピアノであった。(1840年頃に発表)
そして、ショパンは音楽を夢にまで見るが、ピアノがないので曲を書くことができないのだとプレイエルに切実に訴えてる。
しかも、「このパルマには1台もピアノというものがなく野蛮な国なのだ。」と本音を漏らしたショパンだった。
バルデモーサ・カルトゥジオ会修道院
建設1399年、15世紀宮殿でバルデモサ、マヨルカ王の邸宅だった。
起源は、マヨルカ島のジェームズ2世王の時代から始まる。彼は、400m以上の高さにあるシエラ・デ・トラムンタナのこの特別な場所を選んで、彼の息子サンチョの宮殿を建てました。1399年にアラゴンのマーティンはカルタジアの修道士にバルデモサのすべての高貴な所持品をもたらしました。これらはチャーターハウスを創設し、それがメンディザバルの教会の没収によって私的な手に渡り1835年まで個人が住んでいました。
当時の偉大な芸術家や職人によって装飾された新古典主義の建物である教会は、1446年に建てられた原始的な教会の上に1751年に建てられ始めました。現在の建物の最も古い部分の1つ - カルトゥーシ人、庭園、そして修道院礼拝堂の部屋、元図書館、観客席、寝室など - カルトゥーシ人の歴史的および芸術的遺産は保存されており、修道士の暮らしを示しています。セルの中には、1838年 - 1839年冬、フレデリック・ショパンと作家ジョルジュ・サンドの滞在に関する文書と記録があります。
ショパンは28歳のときプレリュード集をここで書きました。
0コメント