F・CHOPIN、ショパン、独居房でも希望を捨てない
フォンタナの手紙は12日間かかってやっとショパンの手元へ届けられた。
フォンタナはショパンが思った通り、ショパンがパルマに来て最初に書いた手紙の後でちゃんと返事をショパンに出してくれていたのだった。
郵便事情が悪いパルマはそういうところなのであった。
ショパンは遠くヴァウデモーサの修道院の断崖と海に挟まれた巨大な荒廃の修道院のなかにある独房で、フォンタナの手紙を読み返事を直ぐに書いていた。
その独房とは、パリの馬車が通る門よりも大きな戸がついている。そして、
独房の中のショパンの姿は、パリの社交界で高級注文服に身を固め、流行りのヘアスタイルで聴衆から見える右側だけを髪を伸ばしてご夫人方の人気を得ていたあのショパンではなかった。
ショパンのトレードマークである白い手袋も独房には必要ないのであった。
独房のほのかなロウソクの光の下で青白く見えるショパンの髪は乱れていた、そういう変わり果てたの自分がそこにいることをフォンタナに想像してほしいとショパンは語った。
ショパンのいる独房を思い浮かべられるようにこうショパンはフォンタナに書いた。
「その独房は背の高い棺桶の形をしていてほこりにまみれた大きなアーチ天井があり、その窓は小さく窓の外にオレンジと椰子・ヒノキが生えている。
反対側のムーア風の窓の下に僕の粗末な野営用簡易ベットがあるのだ。
その近くに古びた薄汚い箱があるだけだ。
書き物をするための鉛の燭台に小さな蝋燭があった。
バッハ、
(なぜか、ショパンは「バッハ」とつぶやいた。頭の中には既に、プレリュード集を24調で書く構想があったのであろう。ショパンがバッハの楽譜を持ち込めたのかは不明。もしくは、彼は天才だから頭の中にバッハがあったのであろう。ショパンのプレリュードはJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を基にバッハに敬意を表し書かれたと言われている。)
私の走り書き、(未完成のプレリュードのこと)
そして他の誰かの古い論文。(ショパンの前に住んでいた老僧の論文か?)
沈黙。 。 。
叫ぶことができます。 。 。(叫んでも誰もいないし、誰も来ない)
まだ沈黙。(静寂というより異常なまでの無音が孤独を誘うのであろう)
要するに妙なところから手紙を書いているんだ。
まさに牢屋のような有様であるのだ叫んでも沈黙でしかない。」
ショパンは聖書を思う心境だったのか、バッハの譜面はどのようにして持ち込まれたのか
ショパンの記憶を基に書いたのであろうか。
パルマに来てようやく1か月を過ぎたがこのフォンタナへの返事を送るには郵便局は休日で来週まで開かない状況であった。
独房でのひとりの時間は長く感じるショパン、手紙を書くか曲を書くか、それ以外他には何もすることがない。フォンタナへ書くこともたくさんある。
ショパンの金銭問題のこと、支払い請求書がフォンタナに届くのは一か月後の日曜になる
金銭が遅れないように期日を確認し指示するショパン。
体調が原稿の仕上がりに反映して支払いに影響がでれば、ワルシャワの家族も自分も困ることになるのでは、ショパンは気がかりなことばかりだった。
マヨルカ島の自然や風景をすばらしいが島の人々との交流は何もないショパンだった。
何もないというより付き合うことは不可能であるのだ。
修道院へ続く道は道路もなく郵便も来ない。
ショパンは乗り物の御者は決まった人と修道院の独房に通った。その道は道と言っても、天候が悪いと道でなくなるのだ、土砂崩れで同じ道を通れなくなる。
だから、ショパンはその都度どんな乗り物で行くことになるかわからないのだ、馬ではなくロバでもなく、ラバになるかもしれない。
途方もない所であるのだ。
だからそういった理解されない環境を強調して書いたショパンは
フォンタナに言った、「この孤島にはイギリス人はいないし領事官のいないのだから
その人たちが、フォンタナに何かを言おうが気にするな!」と
ショパンは、ここに来させた機関がそれであることを記した。
銀行家のレオはユダヤ人であるとショパンはフォンタナに強調している。ショパンはロスチ
ャイルド家のことで懲りたことがあったのかもしれない。ショパンはパリで社交界にデビューしていたがお金のことでいつも苦労が絶えなかったのだ。
そして今も、レオにお金を返すには原稿を送らないと果たせないのだ。
気分がよくなったら書き上げて原稿をおくることをフォンタナに約束したショパンだった。
ショパンは、ユダヤ人のレオに公開状(特定の個人に宛てられているが、
意図的に広く公開される手紙)を送るつもりであるが、
レオは、それを好きな時に一飲みにしてしまうだろうと金を借りたことをショパンは痛く思っていた。
「悪党め!」
とショパンは、レオのことをつぶやいた。
ショパンは、留守中にレオが勝手に自分の手稿を誰かに売り飛ばさないか不安だった。だから、ショパンはマヨルカに来る前にレオに会いに行っておいたのだ。
出版社のモーリスシュレジンガーはショパンの多くの出版を手掛けてきたが、
ショパンはレオよりも数段上の悪党でたちが悪いのだとフォンタナに話した。
シュレンガーはショパンのワルツをアルバム化して、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社
に売り飛ばそうとしていたことや、
その時、ブライトコプフの懇願に屈してベルリンにいるブライトコプフの父親[A・M・シュレ
ジンガー]のために≪ワルツ≫を渡したことを今も思い浮かべるショパンだった。そして、フォンタナにショパンは言った。
「あの虫め!さすがにここまで僕の血を吸いに現れないであろう!」ショパンは出版のことでひどい目にばかり遭わされてきたのだ。
レオからの借金を自分はどうすべきかショパンは困ってた。
このあとせいぜい一カ月でレオと私の家主のことはハッキリさせることをフォンタナに相談した。
それからイギリスのヴェイセル出版社からの送金があったらそのなかから必要経費は使うようにフォンタナに指示し、更に、
ショパンの使用人が来たら20フラン払うようフォンタナ書いたショパンだった。
それから、ショパンは「煙突掃除屋が来たらを支払いをして」とパリでは重要なことなのだ、それも忘れずにフォンタナに指示した。
「それ以外は大きな借金は残していないと思うから宜しく」とショパンは書いた。
ショパンは、「≪プレリュード集≫と≪バラード集≫を私は一ヶ月以内に決着をつける!」とフ
ォンタナに宣言した。この地でその体でこう言ってのけるショパンはやはり天才なのである。
ショパンの独房時間はゆっくりたくさんあるのだ、ショパンは追い込まれてもいつもどこかに希望の光を見出そうと言葉に表した。
「自然だけは素晴らしいこの地
今夜の月はすばらしい。こんなふうなのは見たことがない!」
この日、ショパンが見た月は満月で窓から明るい光が射していたのかもしれない。
でも、次の瞬間悲しくなるショパン。
「でも、でも!
あなたは私に家族から手紙を送ったと書いていますが、私はそれを見たことも受け取ったこともありません。」
ショパンは、とてもワルシャワの家族の事が心配で悲しくなった。
ショパンは不安になり、郵便の送り先を変更したことをフォンタナに指示した。
「送料の支払い済かどうかこの返信が唯一の手紙ですが、宛名が間違っています
宛名はFrancisco Riotordと注意して、ここへ送るように」
そして、ピアノのことは、税関でピアノは一週間待たなくてなならなく、
マヨルカ島の税関は、ピアノを忌まわしいものと扱い莫大な金額を要求しているのだった。
逆にショパンは文化のない島の税関を忌まわしく感じていた。
ショパンは「自然はショパンには親切ですが島の人々は外人を観たこともなく、外国人と
どう付き合っていいのかよくわからないのです。
オレンジは自然になっているから手に入れることができるが、
洋服のボタンひとつに膨大な金額を請求をしてくるのだ。
しかし、そのことはこの地の自然にくらべれば一粒の砂の存在にすぎない。
自分の頭のうえに飛んでいる鷲を邪魔したことはない。」こう語り、
再度、手紙の送料は元払いにして宛先をパルマ・デ・マロルカと書いてほしいこと、
そして、両親に手形と手紙を送るので、フォンタナにそれをワルシャワの両親へ送るようにショパンは頼んだ。
「マッシンスキによろしく伝えてください、そして残念ながら、私はニュルンベルクや
バンバーグの子供たちの家を引き受けたことが残念だ。
とにかく、男らしくしろ、手紙を書くように」ショパンはマッシンスキを励ますように
フォンタナに伝えてほしいと頼んだ。
ショパンは思いのすべてを漏らすことなく1回の手紙に込めて書かなくてはならなかった。
何度も気がかりなことを念には念を押して書いた。
「これが両親に送った三通目か四通目の手紙だと思います。
私の愛をパリの領事館員の友人アルブレクトに捧げる。しかし私がこんなところへ送られたことについて、誰の責任かを言い争わないでください。」
ショパンは、自分に関わる多くの人を書き記すことで正気を保っていた。独房でも精神の強さを持って生きていた。
19世紀頃
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