F・CHOPIN、ショパン、マルセイユで秘書フォンタナへ
100匹の豚を乗せるための船で豚に紛れて命からがらマヨルカ島を脱出したショパンは、本当は何処へ行きたかったのであろう。ショパンは豚が乗る船に接舷されたフランス艦隊に乗り換えさせられパリへ送還されることになった。
マヨルカ島で死にかけていたショパンはフランス艦隊の船医に保護を求め一命を取り留め健康状態は回復に向かっていた。
ショパンはサンドの指図はマルリアニ夫人からの指令で直ぐにはパリには帰れなかった。バルセロナの北海岸にあるアレニス・デ・マルの港で2日間静養した。
そしてバルセロナで1週間過ごした後、ショパンはマルセイユへ向かった。
マルセイユに着いたショパンはフォンタナに気になっていたプレリュード集の出版のことを連絡した。
「僕の健康状態のことはグシマーワから聞いていると思うけど」
と前置きしたショパン。
「そして私の原稿についてですが、私は2か月前にあなたにパルマから私のプレリュードを送りました。」ショパンは独房からフォンタナに指示した内容を再度確認した。
ショパンは続けて、「私はあなたにプロブストのために写譜した分を渡した後で、
プレイエルがプレリュード集に支払う1,500フランのうち、レオには1,000フラン支払うよう頼んでありました。
私はまたあなたにノウグエに四半期の家賃を支払うようにあなたに書いて頼みました。
同じ手紙の中で、私の記憶が間違えていなければ、私はあなたに私のパリのアパルトマンの部屋の解約を頼みましたが、もし誰かに貸す場合は次の4半期の7月まで借りたいと思います。
ヴェイセル出版社から来たお金は新年から3月までの支払いにあなたは充てたと思っています。
手稿の次の分は、きっとあなたに届いたばかりでしょう。なぜなら税関、海上渡航そしてそれからまた税関によって遅らせられたからです。
プレリュードはプレエルに1000フラン請求、(プロブストはドイツの権利を持っています)とポロネーズ2曲は、フランス、イギリス、ドイツの版権を含めて1500フラン、
私のプロブストとの契約のイギリス版とドイツ版の権利はバラードで切れています。
次の手稿は、プレイエルから2500フラン、プロブストからバラードに 500または600フランで全部で3,000フラン請求する必要があります。
(当時、パリのショパンのアパルトマンの家賃が3か月420フランだった。1か月141フラン、現在の14万円)
それから、グシマーワに少なくとも500フランを払ってください。」
これだけのことをフォンタナに指示したショパンである。それだけではなく、ショパンはアパルトマンを来月から誰かに貸す場合、アパルトマンの家具はフォンタナとグシマーワとマッシンスキで分けて預かってもらうように頼だ。
マッシンスキの部屋が一番広いのは「マッシンスキが一番頭が良いという意味ではないですよ」と、冗談を言いながらひがみあわないように気を遣う余裕を見せたショパンだった。
マッシンスキはショパンのマヨルカ島の修道院の独房生活を心配して「坊主になるつもりか」と手紙に書いてきた(現存しない)ことをショパンは「マッシンスキは子供っぽい」と言った。ショパンはお金の苦労が絶えなかったため現実的に生きていたのだ。そしてマッシンスキには炊事道具をあげるようにフォンタナに指示したショパンだた。
ショパンはグシマーワよりもフォンタナにいろいろ任せた、それは夏にパリには帰ることが出来ないことを予測していたからであった。
アパルトマンは解約しないで時々フォンタナに1日か2日いて部屋の管理をして4月から6月までの家賃を支払うようにフォンタナに頼んだショパンだった。
更に、≪ポロネーズ作品40≫(フォンタナに献呈)のことをショパンは「自分の不備がたとえあったとしても、自分のせいではないから、君の裁量でやっておいてください」
とショパンはマルセイユで静養しているため曲が書けないから「後は頼む」とフォンタナをたよるショパンだった。
マルセイユ19世紀頃
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