F・CHOPIN、ショパン、独房から100匹の豚と共に脱出

サンドはマヨルカ島に限界を感じていた。

サンドはショパンと一緒に廃墟の修道院でランデブーという妄想の世界は現実にはなかった。

実はサンドはバルセロナにあるパリのスペイン領事でイタリア人のマルリアニ伯爵と結婚しているフランス人のマルリアニ夫人の指令でショパンをパルマに連れた来たのだ。

そして、サンド自身はマルリアニ夫人の計らいで、ほとんどがバルセロナの大使館に住んでいたのであった。そしてショパンがまだ生きているか時々サンドは見に行った、若しくはショパンが毎日同伴されていた御者の男に様子を聞き出していたのかもしれない。御者の男は決まって毎日同じ人であることがショパンには不可解であった。

ショパンは毎日のように修道院から断崖絶壁にある独房へ連れて行かれて、そこで曲を書いているとショパンはフォンタナに説明していた。

サンドは、1839年2月15日、マルリアニ夫人にマヨルカ島を一刻も早く出てスペインから逃げ出したい意向をバルセロナの大使館から伝えた。

サンドは、何かというと神頼みの言葉が出てくる女である。マルリアニ夫人の計らいを期待しながら「神様どうかこのスペインから脱出出来るよう、私たちに神のお与えをください」こう手紙に書いたサンド。続けて書いたサンド。「二度とこのマヨルカ島には戻りたくありません。どれにおいても私に適さない国であるため、すべての私の方法は、私達が安全である場所、ラ・フォンテーヌが言う安全圏に出ました。

マヨルカの気候の変化は激しく、ショパンと私は急いで逃げました。」

サンドはマヨルカ島を出ることの言い訳と約束以上の報酬をマルリアニ夫人に要求しようと、村での出来事などを報告した。

「パルマから出るには、村人は不親切で馬車を貸してくれなかった。ショパンとサンドはやっとの思いでスプリングのない粗末な馬車を借りて山の間を9マイルのひどい道のりを降りなくてはならなかった。

ショパンは健康状態が一時落ち着いていたが再発し、村の住民はショパンは伝染病であるからとショパンを除け者にし恐れた。

そして、それは教会へ通わないサンドやサンドの子供も村人から石を投げられた。」など、

いかに村での人々との生活が困難であったかの同情を引く物語を書いたサンドだった。

本当であったのかもしれないことは、ショパンとサンドはパルマからバルセロナへ船で渡るのに、豚を100匹乗せた汽船に乗った。

豚の悪臭はショパンの気分を害したのであった。サンドは、マルリアニ夫人にショパンのことをあたかも自分が救ったかのように語ったが、それは、ショパンの仕事ぶりを見て、

ショパンがまだ金の吸える木だから好きだと思い、マルリアニ夫人にショパンは病気だがまだ使い物になるのだと報告しているのであった。

ショパンのことをサンドは「優しくて、親切で忍耐で、親切を絵に描いたような人である」とショパンが無抵抗なことに付け込んでマルリアニ夫人に報告した。

ショパンは父ニコラスから「お前は、人が良すぎる、気前がよすぎる」といつも心配されていたような人柄だった。また、ショパンは父ニコラスのことを「お人好し」と心配していた、そういう親子であるショパンの血筋なのだ。

サンドは、ショパンを自分がマルリアニ夫人からの指令通り世話をしていると報告したうえで、マヨルカ島の豚を運ぶためのボートで脱出しバルセロナの近郊の港まで行き、そこでボートからフランス艦隊の一部の司令官である准将の計らいで、船を接舷してショパンとサンドと子供たちはフランス艦隊の船に乗り換えたのだった。そこで、船医にショパンを診察してもらったとサンドはマルリアニ夫人にたいそう経費が掛かったことを報告したのだった。

サンドが言うには、ショパンをマヨルカ島の過酷な環境のうつ病状態から救うためにとてもお金がかかったというのだ、

しかし、ショパンの病状はよくなかったとしても、ショパンは少なくとも自分の意思がしっかりしていたことはフォンタナやプレイエルへの交渉などから、とてもうつ病とはとれないのである。サンドの顔を見てもショパンは嬉しい気分にはなるわけがなく、サンドの前では憂うつな態度にショパンもなったのであろう。

サンドは、ショパンにお金がかかったことの詳細をあれこれ書いて、マルリアニ夫人にお金を請求しているのである。サンドの手紙はお金をもっと貰いたいがための請求書のようなものである。

サンドの報告書は大げさな妄想も含まれていて、どうやってショパンを悪魔の独房から天国のようなバルセロナへ移し、そこからマルセイユへ行くのに自分がお金を使って移したかをくどく説明したのであった。マルリアニ夫人を説得して約束以上のお金をもっと貰いたい欲の深い女だった。

ショパンはしばらくの間、マルセイユに留まることになった。

マルセイユ19世紀頃

マルセイユ (Marseille) フランス最大の港湾都市、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 (Provence-Alpes-Côte d'Azur, PACA) の首府、ブーシュ=デュ=ローヌ県の県庁所在地。地中海リオン湾を臨む。

3世紀ごろ、キリスト教がもたらされ、10世紀にプロヴァンス伯の支配となり、1481年にはフランス王国に併合された。港での交易は18世紀に盛んになる。1720年に大規模なペストの流行 で10万人程度の死者が発生し、18世紀後半に復興した。フランス革命とナポレオン戦争で一時後退。19世紀半ば以降、産業が盛んになり商工業を中心とする市街が発展し、港湾施設が充実し多くの工業が興る。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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