F・CHOPIN、ショパン、ノアンからパリのアパルトマンを探して
フォンタナが疑わしいことは、父ニコラスからの手紙(現存せず)で知ったショパンだったが、フォンタナはフォンタナでショパンのマヨルカ島の修道院へプレイエルが送ったピアノの支払いの事でプレイエルからあらぬ疑いをかけられているとショパンに言ってきたのだった。プレイエルのアップライトピアノはショパンがプレリュード集を書く約束と引き換えに
カルクブレンナーがピアノの代金の支払いはすることになったいたのだった。
ショパンはそのピアノはフランスには持って帰らず、マジュリカ駐在フランス領事に引き取ってもらったのだ。その後のピアノの買い手は領事が転任してしまいショパンは詳しいことは分からなかった。しかし、ショパンは彼らは善良な人たちなので、ショパンに手紙でピアノの代金はプレイエルに支払ったとショパンは連絡を貰っていたのだった。
カルクブレンナーがお金を支払っているのかどうかは僕に直接連絡をくださいとフォンタナに伝えたショパンだった。このプレイエルのアップライトピアノの支払いのことでショパンはパリで悪評を立てられていることは知っていたショパンだが、それは時が解決してくれるであろうとフォンタナに話したのが8月のことだった。
それから時は9月になっていた。
家具、壁紙、召使い、ベットと机の修理、帽子、グレーのズボンを2着、黒のビロードもしくは絹のベスト…、
あれこれとショパンの注文は多いのである。フォンタナを疑っていたショパンだが、フォンタナはショパンの古い唯一の友人であり、パリで他には頼れる人がいないショパンは、フォンタナにパリに戻るための細々したことは任せるしかないのである。
パリに戻るための新しい住居、生活に必要なものを揃えるためにショパンは出費が嵩んだ。
アパルトマン探しはグシマーワニ頼んであったため、パリにショパンはサンドとは別々に住みたいと思っていることをグシマーワに伝えた。
しかし、ショパンの計画に監視員サンドが頷くわけがなかった。ショパンはひとりになりたいとグシマーワに話したが、サンドがそうはさせてくれないのだと伝えた。
ショパンはサンドに逆らうことはできなかったが、サンドには近くのアパルトマンに住むから、そこからサンドのアパルトマンに顔を出すことで納得してもらおうと思った。
ショパンは最初は小さい部屋で自分は構わないと家賃を抑えたい考えであったが、サンドは違っていた、お金なら何とでもなる(マルレア二夫人からの援助や、グシマーワ、その他の関係ある男から巻き上げるお金、ショパンの才能から奪うお金、ショパンのネタの執筆で得るお金など)から大きい部屋のアパルトマンに召使を雇う計画であることをグシマーワにサンドはお金をくださいとのことを強調して伝えた。
グシマーワの家庭の事情を考えるとグシマーワにあれこれ頼むことはショパンとしては本当は控えたいと思っていたがサンドがショパンからもアパルトマンにお金がかかることをグシマーワに話すように言われたのであろう。ショパンは自分は小さいアパートにしようと思うけれどサンドは大きいほうでとだけ伝えている。その後で、グシマーワに、「君の奥様に敬意を払う」とショパンはグシマーワの家庭を気遣っているのだ。
それに引き替え、サンドはショパンのその文章の直ぐ後に続けて書いた、
「親愛なる私の夫、私はあなたをとても愛しています。」サンドはグシマーワを「だんなさま」と呼んでいた。そして、「女、男、……わが過ち、ストックホルム、股を広げた足」とサンドは書いてグシマーワを案に脅しているのだ。サンドはそうやって数々の男からお金を巻き上げてきた。母親が情婦であったようにサンドも情婦であったのである。サンドはグシマーに恥ずべきことを前置きしてから、家賃の高いアパルトマンに住みますからという理由を飽くまでショパンのせいにして、長々とグシマーワに妄想を書くサンドだった。
ショパンはサンドが何を書いていたかはサンドが隠していたため知らなかったのだ。
知っているのはサンドが極度の妄想癖でショパンの間違ったイメージをサンドが優位に立つために妄想を書いていのであろうということであった。
早くサンドの監視から解放されたいばかりのショパンだったがワルシャワの家族のことだけが心配でそれは出来なかった。
けれど、ショパンはなんとしてでもパリに戻りひとりで住みたかった。それは、サンドのことだけが理由ではない、ひとりになって作曲に没頭する時間がショパンには必要であった。1939年10月9日ショパンはサンド一家とノアンを後にしパリへ向かった。
サンドの館 人形劇
ノアンの館へ続く道
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