F・CHOPIN、ショパン、ノアンの館でサンドと不協和音の予兆
ショパン1838年11月の初めにパリを出てから、マヨルカ島のパルマに約2か月、パルマ近くのヴァルデモーザ修道院の独房生活は約1か月でプレリュード集を完成させ、その後、スペインのバルセロナに3日、アレ二イド・マルの海岸に2日間、それから、バルセロナに戻り1週間、そして、マルセイユでは1989年3月から5月22日までの約3か月近く滞在した。
マルセイユで静養しているはずのショパンは滞在中の5月4日から5月20日までサンドとその子供たちと一緒にイタリアのジェノヴァへ目的不明な旅をしている、詳細不明である。ショパンは兼ねてからの夢のイタリアだったはずだが、この旅はサンド一家を伴ったためか、
「疲れた、帰りの船で身体が消耗してしまった‥」と、後悔しているようなことを一言二言しか述べていなかった。イタリア旅行の後、再度バルセロナへ戻り、そこから
ようやくスペインを離れ、フランスのアンドル県サントル=ヴァル・ド・ロワール地域に位置するノアン=ヴィック の≪ノアンの館≫と呼ばれるサンドが祖母から受け継いだ実家へ向かった。
ショパンはこのノアン行きは厳しい選択であった、イタリアの夢も絶たれ、アメリカへ渡る希望も今のショパンの身体には無理であった。ならば、パリでまたやり直し、そこから出直すしか選択はなかった。グシマーワとサンドとの協議の末、パリを出て約8か月間の長い旅を終えたショパンには疲れた身体が待っていただけだった。ノアンでの静養も悪くはないとショパンは生き延びるための選択であった。
1839年6月初め、マルセイユから1週間かけてノアンへ到着したショパンとサンド一家。
ショパンは、最初にパリのグシマーワへ約束通りノアンへ来てほしいことを連絡した。
ショパンは、ノアンの村までの馬車の道のりの田舎の風景とナイチンゲールやひばりの
美しい鳴き声に耳を傾け、久しぶりに穏やかな自然がポーランドを思い出すようで、疲れ切った体と傷ついた心に沁みるのだった。
豊かな自然だけれども、ひとつだけ欠けているものがあるよ、とショパンはグシマーワに語り掛けた、「欠けているいる鳥とは君のことだよ。」
2年前にノアンでグシマーワとリストと、そこへリストの愛人ダグー・マリー夫人も来ていたことがあった。その頃、ダグー夫人とサンドは人気を競っていたことがあった。
ショパンは、2年前に起きた出来事を思い出し、グシマーワがノアンに来たくないのかもしれないと思い、今年は君が嫌だったことが起きないようにしようと思っていると伝え、
「2分か3分でもいいからノアンに来てください」と、グシマーワが根負けするように説得したショパンだった。
そして、グシマーワの家族の事情を察したショパンは、「ご家族の皆さんがお元気で、
君が出かけても家族が困らない時期を選んで来てください。
君と僕が抱き合って挨拶できる日を作ってください。僕は、君のために上等なミルクと
君の体調のことを考えてたくさんの丸薬も用意しておきます。僕のピアノのことは君が
良いという場所に据えます。その他、君のために必要なものはすべて揃えますよ。」
ショパンは至れり尽くせり語った。それほどまでもして、グシマーワにノアンに来て欲しいショパンだった。
それから1週間経っても、グシマーワから返事がなく、ショパンは再び、
グシマーワへ説得の便りを出した。「シャトルーズ行の急行列車に乗れば翌朝の正午に到着できます。そこから駅馬車で2時間半でラ・シャトに着きます。
公園があり、その中の道を通り抜けします。
着くころには、私たちは君のために夕食を準備しています!」こう説明するショパンは、どうしてもグシマーワに来て欲しいのだった。けれど、ショパンはグシマーワがノアンになかなか来れないのはなぜか知っていた。
ヴォジンスキ家のマリアが2年ほど前に言っていたように、グシマーワとサンドは恋人であるが、グシマーワには家庭があった。だから「不幸な恋愛ですこと」とマリアはグシマーワとサンドが不倫であることを批判したのだった。しかし、マリアは親であるヴォジンスキ夫人の入れ知恵で言っているのであってヴォジンスキ夫人自体がショパンと不倫願望があったから、「この小娘が言えた義理か」とショパンは思っていただろう。
グシマーワには妻のマリアンナと息子のヴィンセントがいたのだ、しかし、マリアンナが具合が悪かったのだ。グシマーワは家庭は壊したくないのだ。
それで、グシマーワは家を空けることは難しいことをショパンは察していたのだった。
それでも、ショパンは頼る人が他によほどいなかったのであろう、グシマーワにどうしてもノアンに来てサンド一家との妙な生活をなんとかしてほしいショパンだった。そして、
なぜこんなことになってしまったのか、グシマーワと会ってグシマーワが知っていることを聞き出したいショパンだった。
ショパンはグシマーワに言った。「この家の主は(サンド)君が来ないから憂うつになって機嫌が悪いのだよ、君が来てくれさえすれば彼女の機嫌も治ると思うよ、君のためにダグー夫人のベットを君が使えるように用意しておくので来てくださ。
天気の良い日に決心して来てくれれば、ある日君は僕とサンドの間にいるであろうさ。
僕のアパルトマンに置いてある僕の靴を2、3足マッシンスキに君のところへ持って行かせるから…」身なりにお金がかかるであろうとグシマーワを気遣うショパン、ショパンは高級な靴を幾つも持っていた。
その後は、またもやサンドの愚痴とショパンへの一方的な妄想なのか、グシマーワへサンドは書いている。
「どういうことですか!私の夫よ!私たちはあなたを無駄に待っています。あなたは私たちの辛抱強さを軽視しています。
誤った希望で私たちを欺いています。あなたは本当にノアンに来なければなりません。
私の愛する人よ(私の愛するお金よ)
私たちはあなたを必要としています。その少年(ショパン)の健康はまずまずです。
ノアンの生活は単調で静かで孤独過ぎます。パリへのちょっとした旅行をしたいです。それは、彼(ショパン)が憂鬱に浪費するのを見るのではなく私はあらゆる犠牲を準備しています。
彼の士気の鼓動を聞きに来てください。身体的な病気と精神の鈍さとの間を誰が定義できるでしょうか。彼は退屈だと決して白状しません。
私には彼が退屈していることがわかります。(本当は遊び好きのサンドが退屈しているからパリへ行きたいのだ)彼はこのような厳格な生活に慣れていないため、
私は徐々に恐ろしい既婚夫人、または口やかましい女教師になる必要があります。いいえ、既になっているのです。
私たちに会いに来てください。(来なければショパンをもっといじめます)
事実は「父」と「息子」は、「聖霊」の援助が必要です。(ショパンの世話にお金がかかるのでお金をください)彼らは天の崇高な高みにとどまることです。(〈父と子と精霊の御名において〉のサンド特有の聖書の受け売り)」
サンドはグシマーワに早くお金を持ってきてほしいのであった。
サンドはショパンの後に書いた文章はショパンに隠して見せなかった。そのことをショパンは追伸としてグシマーワにサンドの批判を書いた。
「彼女(サンド)が書いた文章を僕は見ることはできません。彼女は僕に隠して見せたがらないのです。彼女のしていることは恥ずべきことです。」追伸ショパン。
ショパンとサンド、恋人でも夫婦でも家族でもない、友人とも言えない、この二人の間にはノアンに来たばかりの頃から既に不協和音が鳴り響いていたのだった。
ノアン=ヴィック (Nohant-Vic)は、アンドル県フランス、サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏
ドメーヌ・ド・ジョルジュ・サンド と呼ばれる、通称「ノアンの館」=18世紀にヴィエルゾン知事のため建設されたマナーマナー・ハウス(貴族が滞在する邸宅)だった。
1793年にデュパン・ド・フランキュイユ夫人(モーリス・ド・サックス伯爵の娘。サンドの祖母)が入手た。サンドは幼年時代から16歳までこの館で過ごした。サンドはこの館でサロンの夜会を開いた。フランツ・リストとマリー・ダグー伯爵夫人、バルザック、ショパン、フローベール、アレクサンドル・デュマ・フィス、ドラクロワなどと交流した。現在は国立記念物センターとして管理されている。
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