F・CHOPIN、ショパン、出版社との交渉とマリー・ダグーのもうひとりの男

1841年5月ショパンは出版の仲介料(プロストが仲介していた)をは省くために1年以上前の1839年から自分でライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社に出版の交渉に当たっていた。

出版に関しては毎回苦い思いをしてきたショパンだった。ことワルツに関しては、ヴァルデモーザの修道院で独房生活を強いられていた1838年の頃からの遺恨があった。

ユダヤ人のシュレジンガーがショパンのワルツ集を一冊のアルバムとしてブライトコプフ・ウント・ヘルテル社に売り飛ばそうとした経緯があった。その時、ショパンはシュレジンガーの弁明を聞き入れたがシュレジンガーの父にそれまで完成させたワルツを渡したのだった。

その後、パルマからノアンそしてパリに戻ってから書き上げたワルツ変イ長調はパリのパチーニ氏によって百一曲集の中に収録し出版したのが1年程前のことだった。そのワルツ変イ長調に関する出版の返答がブライトコプフ・ウント・ヘルテルから3か月待っても来なかった。

ショパンは出版社のことは自分の血を吸う吸血鬼のような悪党しらみどもとののしり、フォンタナには本心を打ち明け毎回交渉に苦しんで来た。この時も出版社相手には淡々と粘り強く交渉に当たっていたがショパンは自らが提示する金額を捻じ曲げ安くすることは決してしなかった。

そのため、睨み合いのような期間が長く続くことがよくあった。

しかし、ショパンもお金に常に困っていた。そのため、駆け引きが必要であったのだ。

「拝啓、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル様、数ヶ月前に、私はあなたから出版の申し出を受けました.。

以前の私のパチーニによって出版されたワルツについての貴社からのご返事を頂いておりません。私のワルツが収録されたパッチー二のアルバムは既にお送りしてございます。

私は今、出版を目的とした幾つかの新作を持っております。演奏会用アレグロ、幻想曲、などを含まれております。

これらの新作の販売について話し合いを持ちたい所存でございます。

ワルツに関する金額は、その手数料を決定し、最近の作品で合意頂いた金額の割合に従う

所存でございます…」

ショパンはこれまで1曲500フラン(凡そ50万円)と提示して来たことを述べているのである。

ショパンは自分が血を流して完成した曲を決して安売りはしたくなかった。そして、

ショパンの生活スタイルは相変わらず下げることは出来なかった。馬車と御者を雇い、社交の場に似合う衣装代、フォンタナへ支払う報酬、召使への賃金、アパルトマンへの家賃支払い、そして、見栄っ張りのサンドの散財など。


ショパンが出版や作品のことを考えていたその2日後である、あのマリーは、まだショパンのグランドコンサートのことを根に持っていたしつこい女であった。

リストへ宛ててマリーが言うには、アメリカの風刺雑誌「ワスパス」がショパンの演奏会に現れたリストは、自身がどうして出演できないのかという不満をもっていたことを風刺した記事を書いたというのだ。

リストがショパンに「私にも弾かせてくれ!」とショパンにリストが飛び掛かり、ショパンが倒れそうになり、それをショパンの仲間の聴衆がリストを取り押さえたという風刺である。そして、マリーが評論を書いたことは称賛されたとマリーは自画自賛をしてリストの気を引いたのであった。

その12日後、マリーはリストに愚痴を言っただけではまだ気が収まらなかったのであろう。今度はまたアンリに手紙を書いている。「リストの成功に嫉妬しているサンド。ショパンを無理やりプレイエルで演奏会を開かせた。非公開で、友人だけの・・・、」と書いて、マリーはサンドとショパンの成功を妬んだ。

アンリに事前に邪魔をするようにそれとなくマリーは伝えておいたのにアンリが自分に従わなかったのも腹が立ったのであろう。

マリーは本当にしつこい女であった。裏に回って、あちらこちらへサンドとショパンを悪く言っていた陰険なマリーだった。これもまた、マリー自身がサンドとショパンに対して嫉妬に狂っていた証拠である。

マリーは、リストだけでなく、画家アンリ・ラマンとも関係があったのだ。

アンリ・ラマンによる自画像

(1814年4月14日ドイツ、キール- 1882年3月31日パリ)

フランスの画家

彼の兄弟は画家ルドルフ・レーマン (1819-1905)

彼はハンブルクで父レオ・レーマン(1782年から1859年)とその他の画家から学んだ。

1831年、17歳で、Jean-Auguste-Dominique Ingres(1780年8月29日 - 1867年1月14日ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルのもとで美術を学ぶためにパリを訪れた。

新古典主義の画家のドミニク・アングルに学んだ。アングルの優秀な弟子の一人となる。

1835年にサロン・ド・パリに出展し、2位メダルに入賞し、その後毎年サロンに出展した。1840年、1848年、1855年に1位メダルを受賞した。

1838年から1841年の間は、ローマに滞在しアングルの下で更に学んだ。

ローマでは作曲家のフランツ・リストとその愛人のマリー・ダグーと知り合い交流を深めた。リストとマリー・ダグーの肖像画は有名である。ショパンの肖像画も描いている。

1846年レジオンドヌール勲章シュヴァリエを受勲してフランスの市民権を得た。

マリー・ダグー(アンリ・ラマンによる肖像画)

フランツ・リスト(アンリ・ラマンによる肖像画)

フレデリック・ショパン(アンリ・ラマンによる肖像画)

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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