F.CHOPIN 、ノアンにピアノが届く、そして夢と現実をさまようショパン

ショパンがサンド一家とノアンに来てから2か月経った。生真面目で献身的なフォンタナはショパンが指示した通りにパリで写譜の仕事に専念していた。

一方、ショパンはフォンタナに頼んだ自分の七つ道具が無事のノアンに届けられ安堵していたところであった。

そして、ショパンにとって一番大事であり、一番厄介なピアノの運搬がまだ残っていた。

ショパンは旅の行く先々でいつもピアノの運搬には苦労をしてきた。ピアノがいかに面倒な楽器であるかということなのだ。

その面倒なピアノの手配もフォンタナが骨折ってくれた。何もかも任されていたフォンタナは責任が重大であった。

ショパンはフォンタナにお礼を伝えた。

「僕のすべての用事を実行してくれた君の親切に僕は感謝するよ。」

「9日、私はプレイエルから送られてきたピアノを受け取りました。パリからノアンまで

たった2日で届きました。 僕の小さな胸像は僕のポーランドの家族に送らないで下さい。

食器棚の中にでも、そのまま放置しておいて下さい。そのうち家族が来たときに見つけて驚くことでしょう。マッシンスキには手紙をありがとうと伝えてください(現存せず 。近々、彼にも一言返事を書きます。

ところで、ノアンに来てからというもの、すべてを台無しにした僕の年老いた使用人を解雇するつもりです。僕は彼の仕事ぶりを知っているが、彼は間に合わず周囲の仲間を憤慨させるのだ。だから、ここにいる人々 は僕が彼を解任するように言うのです。彼に暇をやろうと思うから、彼をパリにでも行かせ僕を待っていろと本人には言うつもりだ。

だから、彼が家に現れたら君は驚かないでくれたまえ。家で僕の帰りを待たせておいて、1、2週間したら、僕は予定より帰りが遅くなると伝えて君は彼を追っ払ってくれないかな。」

この使用人とショパンは意思疎通ができていなかったのであろう。ショパンは使用人はポーランド人と決めていたがこの時はどうであったか不明である。

ショパンが注文したプレイエルから送られたきたピアノはシャトールー(フランス中央部、アンドル県サントル=ヴァル・ド・ロワール地域)に到着することになっていたため、ショパンはそこへ使用人を3人行かせ待機させていたのだ。しかし、フォンタナの手配のおかげで

ショパンはノアンでピアノを無事に受け取れたのである。

ショパンはフォンタナにそのお礼を言った。

「私たちはまだ梱包を解いていないので、ピアノがどのように聴こえるかわかりません。その素晴らしい作業は明日にならないとまだわからないのです。

運送会社に対する請求については大騒ぎする価値はありません。

君は可能な限り最善を尽くしましたのですから。

気分が悪くなったとしても数日が無駄になるだけだ。

厄介な価値のないことは忘れましょう、もうこの件については終わりです。…」

そして、ショパンは新たにロッシーニのオペラの出版を手掛けていたトルーペナス社との交渉をフォンタナに任せていた。

そのことを、君の仕事はまだまだあるから、また追って詳しく説明するとフォンタナに伝えた。

ショパンは、一時的に落ち着いてはいたが、当時の奇妙な治療法で病状を抑えていただけだった。パリの公害から夏の間だけでもショパンは逃れ、ノアンの綺麗な空気でショパンはなんとか生き延びていた。

しかし、友人で医師のマッシンスキは不吉な夢を見たとショパンに伝えて来たと、ショパンはフォンタナに話した。

「マッシンスキが僕が死んだ夢を見たと手紙に書いて来た。(現存せず)君は決して僕が死んだ夢など見ないでくれたまえ。

むしろ僕が生まれて来たとか、それとも似たようなことを夢見てほしいです。

実際、僕は生まれたばかりの赤ん坊のように優しくなってきていて、もし誰かが私を先導するひもに繋いでどこかに連れて行ってくれたのなら、僕はとても幸せになるはずです。

しかしながら、残念なことに、それはひもではなく松葉杖ですが、このまま高齢に近づいていくことが私を待ち受けています。

最近私は病院で死ぬ夢を見ました。

つい昨日のことのようです。もしもだ、

君がは僕より長生きした場合、夢を信じるかどうかを学ぶだろう。

数年前に、僕は何か別のことを夢見たが、それは実現しなかった。

そして今、僕は目が覚めているときに、ありとあらゆるナンセンスなことを夢見る。それは

なぜ僕が君にそんなことを書くのか君は理解して下さい。だから、僕の家族からの手紙がパリのアパルトマンにポーランドから届いたら、君はノアンにいる僕に直ぐに送ってください。君の年老いた人を愛してください。」

こう綴ったショパンはフォンタナに「老いた僕を見捨てないでくれ」とショパンは31歳にして自分の病の不安とノアンの田舎の人里離れた閉塞感から老人の気分になっていたのだった。マッシンスキはショパンがサンドに連れていかれ自分をパリに残して、ショパンがノアンへ行ってしまったことで、ショパンの病状を心配していたのである。

マッシンスキは遠回しに夢のせいにして、サンドとは早く別れたほうがいいと言っていたのであろう。ショパンはそれを感じていたため誰かが自分を助けに来てくれないかという願望をフォンタナに話していた。

ノアンの館 ショパンの部屋の扉

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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