F.CHOPIN、ノアンからパリのフォンタナへ、そこからウィーンのメフェッティ殿

ショパンはノアンでポーリーヌの訪問や、ロゼール譲のつまらぬ心配の邪魔が入り、ノアンの滞在は気が休まるものではなかった。

出版の話をフォンタナに詳しく書いて指示をた、その3日後、8月の半ばが過ぎようとしていた。ショパンは自分の作品を次々出版することに力を注いでいた。

出版社のメフェッティへ宛ててショパンは書いた。

「親愛なるメフェッティ殿

現在、私はあなたの要望に応じられる原稿がございます。 それは

ポロネーズの形をした一種の幻想曲作品 44、そして私はそれを

ポロネーズと呼んでいます。 ドイツの出版権利のための25 louisの価格に

あなたの承認が得られるならば、お知らせください。

出版日と支払いについてご連絡頂きたく存じます。

ご興味がない場合も、ご連絡いただいたく存じます。その場合、私の原稿は他の出版社へ向ける所存でございます。

マルファッティ様にもくれぐれもよろしくお伝え下さい。」

ショパンはこれをパリのフォンタナへ送り、フォンタナがパリからウィーンへ出していた。

ショパンは自分の居場所を誰にも知られたくなかった。


ピエトロ・メフェッティ 

ロレンツォ・ジョヴァンニ・ドメニコ・ピエトロ(1777年4月ルッカ-1850年7月25日ウィーン)イタリア人 音楽出版社、ウィーンに拠点を置いていた。

1798年に彼の叔父Carlo Mechettiにより芸術の音楽出版社を立ち上げた。そして、1807年に叔父音楽出版社に入社。1811年叔父の死後、メメフェッティは会社を引き継いだ。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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