F.CHOPIN、ノアンとパリのピガール街を行ったり来たりするショパン

ロゼールとアント二イがショパンの良からぬ噂話を広めたことがサンドの耳に入り、

ショパンとサンドはノアンで口論になりショパンとサンドの関係は事実上は決裂していた。

サンド自身もロゼールの悪口に乗り一緒になってショパンを笑いものにしていたことは、ショパンにはお見通しであったことが、ショパンからお金を貰っていたサンドには気まずかった。

ショパンの過去をヴォジンスキ家に話したのはサンドではないのかとショパンはサンドを疑った。サンドは、「ヴォジンスキ家にショパンが不利になるようなことを何もかも私がヴォジンスキ家に喋りました」と、ショパンに言ったのだ。

ショパンはヴォジンスキ家のことは嫌いであるが、これ以上関係性が悪化することは避けたかったのだ。ヴォジンスキ家との付き合いの関係が破断になった本当の原因はサンドであることが、分かったのが遅すぎたショパンだった。

サンドはそれを開き直り、ロゼールとショパンを笑い者にしていたのだ。

ショパンはヴォジンスキ家と上手く付き合うことはポーランドへ帰ること、アメリカへ渡ることに繋がるからなのだ。だからショパンはサンドが憎かった。

ショパンの怒りは数日間続き、1日中サンドと口を利かない日もあった。

サンドはロゼールに言った。「ショパの悪口、誹謗中傷、これまでの噂話を広めたのは、フォンタナさんだと思います」

「フォンタナさんは不幸な人で、その不幸をショパンも巻き沿いにしようとしているのです。ショパンに有害は人物ということです。」

と、自分とロゼールのショパンに対する悪口を棚に上げて、ショパンの友人秘書であるフォンタナが原因であるとサンドはロゼールに話した。

ロゼールとサンドが悪口を広めたことは間違いなかった。そのうえ、フォンタナまでもがショパンを裏切っていることが本当ならば、ショパンがアメリカへ渡ろうとしてたことを阻止していたのはフォンタナということになるのだ。

そして、サンドはショパンに言った。

「このノアンの家に誰を招くかを決めるのは私です。あなたが、この家の主人ではないのです。この家の主人は私です!」と口論になったとき、サンドは売り言葉に買い言葉で一番ショパンが嫌がることをサンドは口にしてしまったのだ。

確かにノアンの館はサンドが祖母から受け継いだ家である、しかし、売れないサンドの小説は負債を抱えていたため、ショパンは負債を肩代わりさせられたり、ショパンの稼ぎでサンドも生活をしていたのだ。

ショパンはサンドのことを、「いい加減、この老婆から逃げないと自分は殺される」と心のどこかで叫びたい気分だった。それは、ノアンに来ていた6月の出来事だった。

それから、そろそろパリへ戻りたいショパンだった。

9月も半ばを過ぎたころ、ショパンは、パリとノアンを頻繁に行き来していた。

それだけショパンは出版のこと作曲のことで、よく働いていたのだ。

ショパンは、8区トロンシェ通り 5番地に一人で住んでいたが、ピガール街のサンドのアパルトマンと別々の二つの高額なアパルトマンを借りることは家計が持たなくなったのだ。そして、ショパンがどうやらアメリカへ渡りたがっていることをフォンタナがサンドに話しを漏らしたのであろう。

ショパンへのサンドの監視は強まり、ショパンが毎日サンドのアパルトマンに顔を出すという約束だけでは、サンドが承諾しなくなったのだ。

1839年からは、9区ピガール通り16番地のサンドの家にショパンは一緒に住むことをサンドに強要された。一緒と言っても、サンドのアパルトマンは一軒家で二つの建物が中庭を挟んで建っていた。そのため、サンド一家とショパンはそれぞれ別の棟で暮らしていた。

そのピガール街のサンドのアパルトマンの別棟の自分の部屋へショパンはひとりでノアンから来ていた。(推測、アント二イが同行したのであろう)

サンドに命令されて何かを取りに来ていたショパンだった。

その後、1週間程パリに滞在し、何事もなくノアンにもどったショパンは思い出したかのように、フォンタナに慌てて連絡した。

「僕の机の右側にある下から2番目の引き出しの中に、

サンド夫人宛ての封印してある小包がある。いつもは金庫になつている場所だ。その小包

を、こぼれないように油紙に包んで、つぶれないように椹木をして梱包して、更に宛名を包みに縫いつけて、駅馬車便でサンド宛てでノアンへ送ってくれ、宛名は剥がれないようにしっかり縫い付けてくれ。マッシンスキが大好きです。」(友人マッシンスキは薬を扱う薬剤師である)

その約1週間後、ショパンはその小包を受け取ったようだ。

フォンタナに「財布をありがとう」と意味不明な返事を送ったフレデリック・ショパンであった。


サンドの息子モーリスによるノアンの館の家庭菜園の井戸のスケッチより 1845年

モーリスによるノアンの館の家庭菜園の井戸のスケッチ 1845年

9区ピガール通り16番地 サンドとショパンが住んだ場所(1839-1842)建物は現存せず、

記念プレートがある

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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