F.CHOPIN、ポーランド出国から10年、ショパンの心境と昔の友との友情

ショパンは、ポーランドを出国してから10年と10か月が経っていた。そして、

マヨルカ島やノアン滞在やロンドンやその他の旅行期間も含めて、ショパンはパリに来てから10年が既に経っていた。

1841年の夏はノアンで過ごしていたショパンだったが、歳月が経てば経つほど故郷であるポーランドへの想いは募っていた。

ショパンはフォンタナにつぶやいた。「僕たちは、ポーランドへ戻ろうか?…」ショパンはいずれはポーランドへ帰るつもりをしていた。

「亡命者たちは全員が気が狂って怒っているのか?僕はミツキェヴィチのことは恐れていないよ。また、ソヴィンスキなど彼らは安定した頭脳の持ち主だから、亡命者の錯乱の中で自分を消耗することなく耐えることができるであろう。」と、ショパンはフォンタナに語った。

ミツキェヴィチはロシア帝国の支配下にあったポーランドの独立を目指す政治・教育地下組織の一員であったため、1823年にロシアに逮捕され1824年にロシア領内への追放刑を受けた。1829年にロシア出国の許可を得ていた。詩人である彼は、叙事詩の発表により、ポーランドで続いた民族蜂起に思想的な影響を与えたと言われていた。ポーランドの11月蜂起後の

1832年にフランスに亡命したが、ポーランド人女性ピアニストで作曲家のマリア・シマノフスカの娘のセリナと結婚したが、不和によってセリナは精神的を病み、1838年にはミツキェヴィチは投身自殺未遂を起こしていた。1840年にはコレージュ・ド・フランスに新設されたスラヴ語・スラヴ文学の主要人物となっていた。ショパンは、亡命者であるミツケビッチはロシアへ投獄されていた過去を思うと、フォンタナは彼とは付き合わないほうがいいのではとショパンに忠告してきたのだ。(フォンタナの手紙は現存しない)しかし、人情を深いショパンは昔の友人を信じて大切にしようではないかとフォンタナに返事を書いたのであった。ショパンはパリで亡命者が混乱の中にあってもミツキェヴィチを見捨てず友情は続た。

アダム・ベルナルト・ミツキェヴィチ(1798年12月24日 - 1855年11月26日)はポーランドを代表する国民的ロマン派詩人、政治活動家

旧ポーランド東部のノヴォグルデク(現ベラルーシ、ナヴァフルダク)で生まれた。父は、弁護士。1807年から1815年にかけてドミニコ会の修道院で学ぶ。ヴィリニュスにあるステファン・バトリ大学で学ぶ。ポーランド立憲王国としてポーランドを支配するロシア帝国からの独立を目指す若者による政治・教育地下組織の共同設立者の一人だった。

1823年にロシアによって逮捕され、1824年にロシア領内への追放刑を受けた。

首都サンクトペテルブルクで文芸サークルに所属、詩作の才能を伸ばした。1828年には14世紀のリトアニア大公国で活躍したドイツ騎士団、コンラード・フォン・ヴァレンロットについての同名の叙事詩を発表した。その後、ポーランドの蜂起に思想的な影響を与えた。

1829年にロシア出国を許可される。ドイツのヴァイマルでゲーテに会う。

その後、イタリアはローマで創作活動を行った。ここでミツキェヴィチの代表作ともされる叙事詩「パン・タデウシュ」を執筆した。

1830年10月ローマに住み始めた。1830年11月蜂起ポーランドでは、彼は1831年の春までローマを離れなかった。

1831年4月19日、ミツキェヴィチはローマを発ち、ジュネーブとパリへ、そしてその後は偽のパスポートを使ってドレスデンとライプツィヒを経由して、8月13日頃ポズナン(ドイツ名:ポーゼン)に到着した。これらの旅行中、彼はイタリアからの通信を実施している可能性がありカルボナリフランスの地下にありパリのポーランドのコミュニティからポーランドの反乱のために書類やお金を届けたが情報が不足していた。1832年3月以降、ミツキェヴィチは数ヶ月間ドレスデン滞在した。

1832年にパリに亡命。1834年6月に「パン・タデウシュ」の初版を発行。

同年7月にポーランド人女性ピアニスト・作曲家のマリア・シマノフスカの娘のセリナと結婚。しかし、不和によって妻のセリナは精神的に病み、1838年にはミツキェヴィチが投身自殺未遂を起こした。

1848年から1849年にかけての冬、フレデリック・ショパンは病気だったあるミツキェヴィチを見舞い、ショパンは彼のためにピアノを演奏しミツキェヴィチの心を癒した。

ショパンはその12年前ミツキェヴィチの詩2編に旋律を付けたことがあった。

ミツキェヴィチ1849年にフランス語の新聞「La Tribune des Peuples」(護民官)を創刊したが1年で閉刊。

1855年、妻のセリナが亡くなると、ミツキェヴィチはクリミア戦争にポーランド人部隊を派遣してロシアと戦うため、パリに未成年の子ども達を残してオスマン帝国のコンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)に移動して準備を進めていたが同地でコレラで亡くなってた。彼の遺体はコンスタンティノープルで仮埋葬された後にフランスに移された後、1890年にポーランドに移され、クラクフのヴァヴェル大聖堂の地下室に安置された。


0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです