F.CHOPIN、出版社との交渉の勝負に出たショパン
ショパンは、出版の仕事に自らが直接交渉しながらも、フォアンタナに細かな指示を与えながら、ドイツ、フランス、イギリスの出版社との駆け引きが続いていた。
フォンタナに≪プレリュード45≫と≪ポロネーズ44≫の原稿がパリのフォンタナに届き安堵する間もなく、今度はヴェイセル出版との取引が難航していた。ショパンはフォンタナに
言った。「…さて、ヴェッセルについて言えば、あいつは馬鹿だよ。
ヴェッセル=詐欺師だよ。彼に君が好きなように返事をしてもいいが、
≪タランテラ≫の件で私の権利を放棄する意図のようだから、僕は出版する考えはないと告げてくれ。」
ショパンは、この標題を付けることは反対であった。そのことを出版社とショパンは口論になった。ショパンはあらかじめ禁じておいたにもかかわらず、この標題を付けことについては、「売れなかった場合、縁起の悪い標題を勝手につけたからだとヴェッセル告げるように。」と、フォンタナに伝えるように指示した。
その後、
ショパンは、今度は「マセット出版は僕の手口にまんまと引っかかり馬鹿な奴だ。」まずドイツへの手紙を先日だすようにフォンタナに指示した。
その手紙でショパンは、マセットやプレタンをうまくかわして、
ガゼットミュージカルに売ったかのように思わせておいて、
それまでのショパンの曲の相場をコントロールして値段を吊り上げることをマセットやプレタンに伝えたのであった。
紳士協定を考えてショパンは、出版を控えてきたが、本心はこんな面倒な立場にいる自分は
早く逃げたいと思っていた。
フォンタナに草稿を送ってその原稿を保管させフォンタナに校訂させていたショパンは、
このことをフォンタナに同じ考えであるのだろうなと話した。
このあとも新たに書き上げた楽譜を送るので、ショパンは「この曲たちをきれいに磨き上げてくれ」とフォンタナに指令を送った。そして、この厄介な仕事をフォンタナが喜んでやるように付け加えた「校訂や写譜は手の遅い修正人には全く持って無理だ」つまりは、
「几帳面で繊細に、しかも敏速にこの仕事が忍耐強く出来るフォンタナ、君しかいないのだよ」ショパンはそうフォンタナにそれとなく言った。
そして、更に「原稿はくしゃくしゃにしない様に細心の注意を払うように気を付けるように」そうフォンタナに言ったショパンであった。
マセットにはイギリスとフランスの両版を買い上げてもらえればショパンは好都合であるからフォンタナには冷静に対処するよう忠告したショパンであった。
ショパンは、今までの相場の値段では生活が出来なかった。今までが安すぎたことと、ショパンが紳士的であることに出版社に付け込まれて来たのだ、そのショパンにとって不利な関係性をショパンはリセットするのに必死であった。
ショパンはこのとき、勝負に出たのであった。
2017年に発見されたフレデリックショパンの写真肖像より(1847年頃)
スイスの物理学者Alain Kohler博士と、情熱的な音楽家Radio France InternationaleのGilles Bencimonが、フレデリック・ショパンの未発表の写真肖像を発見した。
フランスの写真家Louis-Auguste Bisson(1814–1876)のスタジオで行われた。ダゲレオタイプ(ヨウ素増感銀メッキ版と水銀蒸気を用いた初期の写真プロセスによって撮影された写真)写真は個人の自宅で発見さた。
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