F.CHOPIN、フォンタナよ帽子を買いに行ってくれ

1841年のノアンには夏の間の避暑のつもりが、10月も既に終わろうとしていた。

ショパンは、これまで出版社に作品を1曲300フランで提供してきた。この頃、出版社との交渉は、ショパンの計算ではノクターン作品48、バラード作品47、ポロネーズ作品44、ワルツ作品42、プレリュード作品45、合計5曲で1500フラン、(150万)これだけの曲がショパンにしたら、「こんなにたくさん安く手に入るのだ」と、思っていたため、出版社は買うであろうと見込んでいた。

それから、既に主版されていた練習曲作品25と3つの新練習曲 (モシェレスのメトードのための)は版権の値段を入れると300フラン以上でないと提供できない。演奏会用アレグロ作品46は600フラン、幻想曲作品49は500フラン、フランス版権は5曲で2000フラン、ボレロ作品19は600フラン、

それから、ノクターン作品48-1、2、バラード3番作品47、幻想曲作品49、が完成すると、

更なる収入を見込んでいたのだ。

その全てが、全くショパンの計算通り事が運ばなかったのだ。

ショパンは、儲けることを諦めてノアンでの作曲活動を一区切りし、「11月2日の午後5時か6時にパリに僕は到着するよ」と、フォンタナに告げた。

ピガール街のサンドの家の2棟うち一方にショパンが、住むための用意をフォンタナが、手伝おうかとショパンに申し出たがショパンは言った。

「君には随分世話になっているから、引っ越しの労働は僕は頼めません、しかし、他に君には頼みたいことがあります」ショパンはフォンタナに言った。

「僕がパリに到着したときは、君に来てほしい。

それと、僕が到着前に家主ペレタンに会いに行って部屋の用意ができるか聞いておいてほしい。モール夫妻(召使い)にサンドは暇を出したから、僕が帰るまでは部屋を使っていいが、僕が到着する前にペレタンに言って、モール夫妻に部屋を出てってもらうように伝えてください。」ショパンの収入が見込めなかったため、サンドはとうとう召使いに賃金を払えなくなり召使いのモール夫妻を辞めさせたのだ。

それから、まだフォンタナに頼みごとがあった。「ペレタンに了承を得て部屋の空気の入れ替えと、サンドの棟には2・3日まえからストーブで温めておいてほしい」と、サンド一家に姑、小姑のように文句を言われたくないのでショパンは予めフォンタナに頼んだ。

まだまだ頼みごとがあるショパン。

「それから原稿の仕事は急がなくていいよ」と、

ショパンはフォンタナを労った。

「サンドたちの入居の準備より出版社を待たせたほうがいいよ。」と、フォンタナの気持ちを更に労うショパンだった。

「僕の部屋や僕が眠る場所など何も心配しないでいいよ。 

僕が到着した翌日、僕は自分自身すべてのことを自分でやりますからね。

これ以上の面倒は君にかけられないよ。 僕は君が必要とする時に君に僕の借金を払うつもりだよ。君と僕の友情の同盟の証、 君の古いハゲ頭は私のかわいそうなしわの寄った鼻と一緒にくっつけて、そして我々は歌います。

 プロゴスラスキーの音楽に合わせてクシシュトフォヴィチのテノールで、伴奏者は故レンツ…クラクフ(ポーランド)万歳…、君の古くからの友人 ショパン」

ショパンはフォンタナが死なないようにポーランドの古い記憶を共有できる話をフォンタナにして慰め合った。

そして、「そうだ」ショパンは思い出したかのようにフォンタナに仕事を一つ追加したショパン。

「到着までにモン・ブラン街へ行って帽子を用意するように職人に伝えてくれ」と、

ショパンはフォンタナが死なないようにモン・ブラン街へ行く仕事を与え、フォンタナに気晴らしするように促したのだった。


ヴィトジキ修道院(ポーランド、ワルシャワ )19世紀頃

17世紀フォンタナの先祖である建築家ヤコブ・フォンタナによって設計された。バロック様式の教会。

ショパンはワルシャワの青春時代に家族と礼拝に訪れていた。そして、ショパンは学生時代、オルガン奏者として演奏した。この教会のオルガンで1825年から1826年にかけてワルシャワ公会堂の弟子として演奏したフレデリック・ショパンを記念して記念のプレートが示されている。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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