ショパンから出版の交渉に参っているフォンタナを労うメッセージがパリに届く前に、マセットからパリのフォンタナに「1曲300フラン以下でどうですか」と、金額を下げる交渉をして来ていた。フォンタナはショパンからの「1曲300フラン以下では承諾せぬ」と書いた便りと、その後「帽子を買ってきてくれ」というメッセージを受け取る前に、ノアンのショパンへ手紙を出していた。(現存せず)そのため、ショパンはフォンタナの便りが、どういう意味かわからない部分があった。
「マセットの手紙を送ってくれてありがとう。残念だが、僕が300フランでは承諾できぬ、と君は本当にマセットに告げてくれたのかね?それとも書かなったのかね?彼はそれを悪く取らないはずだよ。プレリュード作品45については、シュレジンガーのアルバムに掲載する話は、僕はパリでこの間マセット夫人と会ったときに話したが、この交渉はもう終わりだ。二度とシュレジンガーの話はするな。」
ショパンはマセットもシュレジンガーも出版の交渉は決裂で終わりだとフォンタナに告げたのだ。パリに戻ったときにシュレジンガーに直接会いにショパンは行ったが、シュレジンガー夫人がシュレジンガーの代わりに話すだけで話しにならなかったのだ。
この頃、パリとノアンの間は馬車でおおよそ3日程で、手紙は郵便事情によっては天候や中継により1週間程かかったこともあった。そのため、ショパンがノアンから矢継ぎ早に出す便りにパリのフォンタナとの時間のずれが生じていた。
「夜想曲作品48を2曲送ったよ。他は水曜日に送るよ。僕のノアン出発は遅れて、6日にパリに着かないだろう、恐らく8日になるよ。冬が近づいているから、写譜を続けるように頼むよ。残りの曲は数日以内にパリに届くよ。」
ショパンは、フォンタナにノクターン作品48の写譜を頼んだ。そして。「まだ、シャープとフラットが抜けている個所があるから見直してくれ」と、フォンタナに校訂を指示した。
ショパンはその後、10日ほど出版社をどうするかをシュレジンガーやマセットのことを思い出すとイライラする気持ちを抑えながら頭を捻った。
そして、予定した通りノアンを後にし、パリのピガール街16番地にショパンは戻っていた。
ショパンは冷静になって次なる手を考えた。
「ライプチヒのブライトコプフ・ウント・ヘンテル殿
私の4つの原稿を送ります。演奏会用アレグロ作品 46、バラード作品 47、2つのノクターン作品 48、幻想曲作品 49、お受け取り次第、お知らせください。」
ショパンは出版社の方向性を変えて、ブライトコプフ・ウント・ヘンテルへ4曲交渉にあたった。
ブライトコップフ&ヘルテル
世界最古の音楽出版社、ライプツィヒでバーンハード・クリストフ・ブレイトコフにより1719年に設立された。19世紀にフランツ・リストやクララシューマンに高く評価された。
同社は常に、ベートーヴェン、ハイドン、メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、リスト、ワーグナー、ブラームスと密接に編集上の協力関係を築いてきた。バッハ・ゲゼルシャフトの作品とヨハン・セバスチャン・バッハ、モーツァルトの作品、フランツ・シューベルトの最初の全集版を出版した。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
0コメント