ショパンは出版の仕事に毎日追われながら、1日も休む間もなかった。その間の、
1841年12月2日ショパンはフランスの国王ルイ・フィリップに招かれて、チェイルリー宮殿で演奏した。
リストがドイツのケルン大聖堂で基金活動の演奏会したのが9月のことだった。
この出来事は、サンドとショパンにとっては、とんだ茶番劇だと思っていた。そして「エチオピアとコンゴの王様の気分だったであろう」と、リストを皮肉ったショパンだった。
サンドのライバルであるマリーはショパンとサンドがパリを不在にするチャンスをいつも狙っていた。その間に、目立ちたがりのふたりは、「ショパンよりも何か大きいことをしてやろう」と企んでいた。マリーのやり口は、裏に回って悪口を言ったり、ショパンとサンドの不在の間にショパンの人気をも奪ってしまおうという陰湿で、正々堂々としたライバルとしての戦い方ではなかった。
ショパンは、4月のグランドコンサート以来、公の場で演奏する機会がなかった。しかし、
4月のグランドコンサートのとき、キュスティヌ侯爵がショパンの演奏を聴いてショパンを賛美して、「あなたの望む通りに私はしますよ」と、ショパンに言ったことが7か月後に実現したのだ。
国王ルイ・フィリップの前で白いネクタイで礼装をして演奏したショパンのことがサンドは鼻が高かった。
サンドは、よほど誰かに自慢がしたかったようだ、その見栄を張る相手は、なんと別れた前の夫だった哀れなサンドだった。
サンドは離婚した夫の弟にこのことの自慢を書いて送りつけた。つまり別れた夫の耳にも入るであろうという計算だ。
「chip,chip シィップ、シィップ」サンドが機嫌がいいときはこうして、ショパンを2回連続で呼ぶのである。
「chip,chipは昨日の前日に宮廷で演奏をしました。」
「彼は白いネクタイをしていてたが、あまり満足していません。」
ショパンは演奏もさることながら、いつも自分の見た目に気を配っていた。若いときからショパンの青い瞳に金髪のくせのある長めの髪に繊細な細い顔立ち、そのエレガントで流行のものを身にまとう姿は貴族の貴夫人たちの注目の的でもあった。それゆえ、ショパンはいつでも、身に着けるものは、全て自分でこだわって選んでいた。サンドが言うことが本当なら、この時のネクタイは自分で選んだものでなかったのかもしれない。
そして、娘のソランジュのことを「日曜日に仕事をしたくないから学校に立てこもっている」とサンドは話した。サンドは、全く娘の気持ちがわからない駄目な母親だった。
それを、「このように娘の悪い所は、あなたの家の(別れた夫)血筋ですかね」と嫌みを言っているサンドなのだ。
そして、ショパンはサンドの散財でいくら働いてもお金が足りず、困り果てていたためサンドの使用人の夫婦を辞めさせたのだが、その腹いせにサンドは今度はモンマルトル辺りでスカウトして来た若い坊やベリッシゥを雇ったのだ。その若い坊やとサンドが日曜日にいちゃついている家に年頃の娘のソランジュは帰れないのである。そのうえ、使用人とは名ばかりで、全く役に立たず、ソランジュは家の手伝いをさせられるのが「私は不正の犠牲者だ」とサンドに抗議したのだ。サンドはそれを理解できなかった駄目な母親だった。それどころか、
「使用人の坊やはかわいくていい子ですよ」と見栄を張ったことを義理の弟に書いたのだ。
そして、ショパンがピガール街の自宅で弟子を取るようになったのは実は、サンドの見栄の散財でショパンが更に収入が必要になったからだった。それを、サンドはショパンのことをお金に興味がなく困った坊やだとショパンのせいにして書いた。
サンドは自尊心が強すぎる女だったのだ。ショパンはお金に興味がないどころか子供のころからお金のことは父ニコラスの教育で経済観念がとてもあった。自分の曲がタダではないと少年の頃から言っていたショパンだった。
そのため、ショパンのレッスン代金もショパンが設定したのであろう。
ショパンは自分の曲や自分の演奏に自分で値段を少年の頃から付けていた。ショパンはそれだけ自分の才能に自信があったのだ、ショパンだから出来ることだった。
ショパンは緻密だったため、微妙な値段を計算して決めたのであろう、「私の部屋では20フラン、ご夫人のお屋敷では30フラン(送り迎えの馬車にかかる交通費)」
これはショパンが計算した通りになったようだが、ピガール街という優雅さとは程遠い場所の環境がご夫人たちに不評だったのだ。30フラン払ったとしてもピガール街には来たくないご夫人もいたのだ。
サンドは、ヴォジンスキ家からの契約がまだ残っていたのだ。サンドは、まだショパンからお金を吸えると思っていたため義理の弟に話した。「まだショパンにはわかってもらわねばならないことがたくさんあり、ショパンは体調不良のため高い率でお金を稼ぐ方法がいるのです。」
ショパンが働き過ぎで体を酷使していても、サンドは自分の欲と見栄のためにショパンを使ってどうやってもっと金を稼いだらいいかを別れた夫の弟に話したのだった・・・。
フランソワ・カシミール・デュドヴァン(1795年7月6日- 1871年)サンドの前の夫、
陸軍士官学校で1822年に中尉の地位を去るまで軍に勤めた。父はジャン=フランソワ・デュドヴァン(1754年から1826年)農夫でフランス軍将校と愛人との間に生まれた私生児。
1822年12月10日に、DudevantはAurore Dupin(ジョルジュ・サンド)と結婚。1830年に別居する前に、モーリス(1823年 - 1889年)とソランジュ(1828年 - 1899年)の2人の子供がいた。
サンドと夫のフランソワ・カシミール・デュドヴァン
とその子供モーリス、ソランジュの一家4人はノアンのサンドの館に住んでいた。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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