ショパンは、ピガール街16番地のサンド一家の住む建物の敷地の中庭を挟んで建っている別棟にショパンは一人で住んでいた。
サンドは新しい少年の召使ベリッシゥと遊ぶために、ショパンとは別棟に住むことが好都合と思っていた。
そして、ヴォジンスキ家からの命令でショパンを監視することも出来、一石二鳥とサンドは思っていた。
そんな日々が続いていたある日、ショパンの父であるニコラスから手紙がフレデリックに届いた。フレデリックが父の命名日に合わせてお祝いを送ったその返事であった。
ポーランドでは、誕生日とは別に命名日という日がある。
キリスト教守護聖人の日が365日毎日あり、自分の名と同じ聖人の名前の日がその人の命名日だ。ニコラスは、この年70歳の記念すべき日をワルシャワの家族で祝ったのだ。
「私の愛するフレデリックよ、12月4日にお前は書いてくれたのだね。命名日(ニコラスの命名日は12月6日)の翌週にちょうどお前からの祝福の言葉を私は受け取りました。
お前は私に本物の喜びを与えました。
そして、私は感謝します。
お前は疑う余地がない誠実な性質だ。
お前は人々から尊敬され、天国がお前に適切な報酬を与え、お前を見守ってくれるようにお父さんは祈っているよ。
お前の話によると、お前は宮廷に招かれて演奏したと聞いて私たちは正直なところ驚いているのだよ。けれど、お前はあまりいい気分はしなかったと話していたから私たちは心配しているのだよ・・・。お前の健康が良いことを私たちに願っているよ。 」
ショパンはフィリップ王に招かれた栄誉とフランスへのポーランド亡命者の革命家のブラックリストに挙げられ監視下にあることとの狭間に自分がいることを思い知らされたからだ。
そして、ニコラスによるとワルシャワにタールベルクが来たというのだ。
「タールベルクはパリに戻ったかね?お前は、会っている頃だろうか。」
タールベルクとショパンは1828年のウィーンの時からの知り合いだったが、ショパンはタールベルクのことは否定的であった。
それを父ニコラスは知っていた。ニコラスは息子フレデリックに言った「お前はもうタールベルクのことを嫌ってはいないと思うが、タールベルクはお前の事をよく話してくれた。
彼はワルシャワに滞在している間、私たちに大きな配慮をしてくれたのだよ。」
タールベルクはワルシャワに帰れないショパンをよそに、ワルシャワで演奏会を開き、ショパンの父ニコラスにも取り入っていたのだった。
本当ならばショパンがそうしたいことをタールベルクが先を越したのだ。ショパンはそれをニコラスから聞き複雑な気持ちだった。
そのうえ、ニコラスは、「今度、リストとサンドがふたりでワルシャワに来るのだよ」と言うのだ。
ショパンがポーランドに帰れないというのに、父ニコラスはリストがワルシャワに来たら、
ショパンが大事にしていたピアノをリストに弾いてほしいと言うのだ。
この頃、ショパンはリストとは友情が壊れていたのだ。ニコラスはあまりそのことを理解できていなかったようだ。
ショパンは嬉しくなかった。ショパンは子供の頃から家族思いだった、マヨルカ島の独房のことも、サンドのノアンの館のことも父ニコラスは何も知らないのだ。
ショパンは苦労を重ねて体は疲れていたが精神的には成長して世間に揉まれていた。父ニコラスとは1835年の6年前のカールスパート以来会っていないショパンだった。
ニコラスは、子供のころのフレデリックに話すように「お前の友人にはお父さんは親切にするよ」と語ったのだ。。。
ルイ=フィリップ1世(1842年撮影)
ルイ=フィリップ1世( Louis-Philippe Ier 1773年10月6日 - 1850年8月26日)は、オルレアン朝のフランス国王(在位1830年 - 1848年)
爵位はヴァロワ公爵、シャルトル公爵、ヌムール公爵、オルレアン公爵
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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