F.CHOPIN、「お金を返して下さい」母ユスティナからフレディへ、そして親友マッシンスキよさようなら、そして、サンドの娘クレサンジュ

「私の愛するフレディ」

父ニコラス72歳に続いて、視力の衰えがある母ユスティナ60歳は最愛の息子フレデリックに宛てて筆を取った。

「3か月間待って、私たちはやっとフレディから手紙を受け取りました。(現存せず)

お前の誕生日と名の日3月1日と5日に私は、お前のことをずっと考えていました。

神はお前を祝福し、お前を守ってくださいますように、お前の幸運を私は願っています。」

母親ユスティナは、息子フレディ(フレディと呼んでいた)と最後に会ったカールスパートでフレデリックと腕を組んで歩いた幸せな時間だったときのことを思い出していた。

そして、言いにくいことをユスティナはついにフレデリックに切り出したのだ。

「お前に私からお願いがあります。

母親は子供に物乞いをするべきではないことはわかっております。

お前が善良で誠実な子供なら、もし自分が必要とする出費に差しさわりがないのなら…、(無駄遣いのための借金をすることは神は禁じています)お前は私の言うことにイエスかノーかで率直に答えてください。

それが答えられないのなら、私が言う通りにしてほしいのです。私はこの問題は二度と口にしませんから…。」

神妙な前置きをする母ユスティナ…お金を無理までして仕送りしているのは息子のため、よくわからぬ娼婦の一家のためではないとユスティナは言いたいのだ。

だから、「自分が必要とするもの」=息子フレデリックが必要とするもののためになら仕送をしてきたのに、「息子よお前は何に散財しているのだ、どうして、いつもそんなに金が足りなくなるのだ、あの詐欺占い師の女かね」ということなのだ。

「…私は3,000ズロチの借金があります。

お父さんはそのことを知らないのです。

お父さんが知れば、ひどく心配なさるでしょう。

お金は必ず返済しなくてはならないお金です。今年の間にお前がそれを送ることができるならば、少しずつでいいので、バルチンスキを通して私に知らせてください。」

バルチンスキはフレデリックの妹イザベラの夫である。母のユスティナはニコラスに内緒で、息子フレデリックを支援し続けるためにとうとうお金が尽き借金までして、フレデリックに仕送りをしていたのだ。それを、ニコラスは知らなかった。

イザベラ夫妻は、姉イザベラと兄フレデリックが家を出た後は、父ニコラスと母ユスティナの面倒を見て一緒に住んでいたのだ。

そのイザベラの夫にフレデリックから返済の話をするようにということは、イザベラの夫が母の借金の肩代わりをさせられているということなのだ。

「お前は私に言うでしょう。なぜママが節約するよういつも僕に言って来たのか今頃わかったと。私は自分を救うために言っているのではありません。それは、お前のために言っているのです。母を信じなさい…。」

フレデリック・ショパンがこの後、妹イザベラを通して自分のために親が借金をしたお金を返済したかは記録がない。しかし、ショパンはサンド負債の肩代わりをさせられていた。そのうえ、サンドの子供モーリスはこの時19歳、ソランジュは14歳で、子供の成長にかかるお金も人のいいショパンは肩代わりさせられていたのだ。

サンドは女性の権利を主張する活動をしていたが、それは実は芸術家や多くの男と関係持ちお金を巻き上げることだったのだ。

サンドとショパンはピカール街の同じ住所の別々の建物に住んでいたが、サンドの住む賃貸の家はショパンに買わせた高価な新しい家具、そして遊具=ビリーヤード、ノアンで栽培している薬草、葉巻、など、ショパンの母ユスティナはフォンタナからサンドの散財を聞いたのかもしれない。

ショパンは、夏までに、またノアンへ家族ではないサンド一家と行くために、パリからノアンまでの旅費とノアンでの生活費、サンドの館で行われる妙な娯楽のためのお金をショパンはひねり出さなければならないのだ。

フレデリックは、父ニコラスが「お前は人が好過ぎる」と、昔から心配するように、フレデリックは親切で人が好かった。サンドとは別れたいと思っていても、その子供二人が路頭に迷うことになるのが目に見えていたショパンだった。

サンドの娘のソランジュはこの頃14歳だった。サンドが男癖が悪いのを見て育ったソランジュの心は傷ついていたのだ。ソランジュは次第にサンドを憎むようになり、母と娘は折り合いが悪かった。ソランジュが母親の愛情不足なことはショパンにはわかっていた。ショパンは子供には罪がないと思っていたのであろう、そして、15歳で亡くなったショパの妹エミリアと同じ年頃になるソランジュを見捨てることは出来なかったショパンだった。

しかも、サンドは負債を抱えていた。ショパンはサンドの負債と散財と母からは借金の原因はお前にあると言われ、ショパンは板挟みで身動きができない状態に追い込まれていた。

それから、1か月後のことだ、4月になり悪いことがショパンの身に降りかかった。

それは、ショパンの親友マッシンスキのことだ。マッシンスキはピガール街にショパンが住むようになってからは、マッシンスキは一人でアパルトマンに住んでいたのだ。

このことは、世間ではショパンとサンドが、同じ住所に住んでいるふたりと見えていたが、一緒に住んでいたショパンとマッシンスキを別々に住むように引き離したサンドは、その後、マッシンスキのアパルトマンにショパンに隠れて通っていたのだ。

マッシンスキとサンドは男女の関係になっていたのだ。

ショパンがそれを知っていたかは不明であるが、サンドは手あたり次第の女であることはショパンも知っていたはずだ。しかし、それが親友マッシンスキまでもが…。つまり、サンドは医師であるマッシンスキからもお金を巻き上げていたのだ。

その、マッシンスキが肺結核(推測)で苦しむようになり、サンドとショパンはなぜか、医師であるマッシンスキをサンドの借家の部屋へ連れて来て、サンドとショパンはマッシンスキを看病したのである。ショパンのポーランドはワルシャワ時代からの旧友マッシンスキは、この時4月20日にサンドの借家でショパンとサンドに看取られて亡くなったのだった。

ジョルジルュ・サンドのデッサンによるソランジュ 1840年頃

(1828年9月 13 日フランス ノアン=ヴィック ₋1899年3月17日,フランス パリ 8区)

18281年9月13日に生まれたソランジェ・サンドは、オーローラ・デュパン(通称ジョルジュ・サンド)と夫のカシミール・デュデバントの二人目の子供である。兄はモーリス・サンド。

1846年、ソランジェ・サンドは、パリのジョルジュ・サンドの主催で開いた彫刻家の集りで、彫刻家オーギュスト・クレサンジェに出会ったソランジュは別の男性との婚約を解消し、1847年5月19日に「ノハンの館」で彫刻家のクレサンジェと結婚した。

1847年結婚して1ヶ月後、当時2万4000フランの借金を抱えていたソランジュの夫であるクレサンジェはサンドの「ノアンの館」の財産を狙う計画を企てた。

ノアンの館で、サンドの息子モーリスをクレサンジェは殴り金品を奪おうとしたためモーリスが銃を持ち出す乱闘事件が起きた。このためクレサンジェとソランジュはノアンの館から追い出された。

この事件の時に使われた馬車がショパンがソランジュに頼まれて貸した馬車だった。それが原因となり、ジョルジュ・サンドとショパンの9年間続いた関係は破局したと言われている。

1848年2月28日に女児が生まれたが4日後に亡くなる。「ニーニ」とあだ名された、ジャンヌ・ガブリエルとも呼ばれる次女が、1849年5月10日、ポンペイのギラリー城で生まれた。

ソランジュは1852年4月にクレサンジェと別居し、1852年8月31日に離婚した。

ジョルジュ・サンドは孫の「ニーニ」をとてもかわいがったが、「ニーニ」は両親が離婚した直後の1855年1月14日、パリで猩紅熱で亡くなりました。

1870年ソランジュは最初の小説、ジャック・ブリュノーを発表した。

1883年彫刻家オーギュスト・クレサンジェが亡くなる。

1889年彼女は二番目の小説、カール・ロバートを出版した。

1899年3月17日、パリ8区の自宅で死去。











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