リストは、ショパンがノアンに行っている間に愛人ダグーとショパンの邪魔をする悪巧みを毎年やって来た。この時、1842年の8月はショパンがパリにいない間にショパンの愛弟子のカールの親に「ショパンがいないからレッスンに困っているであろう、私がその間、無償で特別にみてあげようではないか」そうのように声をかけたのだ。
リストは言うまでもなくハンガリー出身だが、カールの父親もハンガリー人であった。
リストは基本的に教えることはしなかった、リストのレッスンはレッスンらしきレッスンではなく、ある程度出来てきている誰かの生徒を横取りして、1回弾かせて「あーいいんじゃないかな、これで君は今までも僕に習っていたことになった。」と、言って自分の弟子ということにしていた。
女も同じで、出来上がった人の妻を横取りするタイプがリストのやり方である。
ショパンの弟子の評判を聞いたリストは、今度はカールに目を付けて奪う作戦だったのだ。
カールの父親は「無償」というリストの言葉に騙されたのだ。
ショパンが20フランでカールのレッスンをしていると聞いたリストは、甘い言葉でカールを誘い出した。
夏の間、カールはリストの家に行っていた。
ショパンは、ショパンで本当は教える仕事が嫌いなのだ、夏の間はノアンへ逃げて、教えることは休み、作曲に集中したかったのだ。カールのことなどは、まさかそんなことになっているとはショパンは露知らずだった。
リストは、自分の売名行為のために話題のカールに便乗したのである。そのうえ、ションパンに嫌がらせができると思ったのだ。
カールのパトロンに興味があったリストは、カールに近づいて、自分の名前を売ろうと企んでいた。しかし、これはそう甘くはなかった。リストの思い通りにはならなかった。
ショパンはカールのパトロンがだれかを知っていため、
カールのレッスン料は他の夫人のレッスンよりも高い金額の20フラン(2万円)を徴収していたに過ぎなかった。
実は、ショパンはビリーヤード台は購入したのではなかった。高額で買えないため、借りていたのだった。当時のビリヤード台のレンタルにショパンはなんと、カールのレッスン代金と同じの20フランを支払っていたのだ。
ショパンは娯楽の道具を維持するために、嫌いなレッスンを仕方なく弟子を取って遊具の支払いに当てていた。
ショパンの弟子カール・フィルツは、
1830年にサクソニェで生まれ、1845年にヴェネツィアで亡くなった。この3年後にわずか15歳で亡くなるのだ。
カールの父親は、ハンガリーの孤児を育てていた。
カールはパリのショパンのところへ父親に連れて行かれたのだ。しかし、これはサンドが探して来た可能性がある。サンドは、使用人の少年もどこからか連れて来たことがあった。
ショパンの弟子だったカールはリストに横取りされて、リストの弟子と間違えられ置き換えられてしまった。
しかし、カールは、元々は伯爵で政治家のコン・ディシュニィ・バンフィが教えていたのだ。Dénes・Bánffy(1776-1854)は、トランシルバニア総督György・Bánffyの息子でした。カールのもう一人の後見人はヨハンナ・バティヤニイ伯爵(1794-1880)である。
カールの父親は夏が終わるとぼやいた。「リストは足元から鳥が飛び立つように何処かへ行ってしまった。」夏が終わると少年カールはリストに捨てられた。リストはショパンへの嫌がらせとカールのパトロンの偵察の目的を達成したため、「もういいだろう。私に習ったことにしておいてくれ」と、カールを適当にあしらって煩わしいことから逃げたリストだった。
リストのダグーの前の女はサンドだった。そのサンドが煩わしくなって、ショパンを陥れた。そのうち、ダグーも煩わしくなったら、リストはカールの時と同じく「もういいだろう
。昔の私の女だったということで満足しといてくれ」そう言って、リストは気まぐれにどこかへ飛び立つ日がくるのだった。
ショパンの弟子カール・フィルツは、元々はコン・ディシュニィ・バンフィ
Count・Dénesné・Bánffy(1789-1865伯爵、政治家)が教えてきた。
カールのもう一人の後見人はヨハンナ・バティヤニイ伯爵夫人(1794-1880)
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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