F.CHOPIN、ニコラスより、リストはハイエナのようだ

8月のノアンを後にして、ショパンはパリの新しいアパルトマンに住んでいた。季節は既に10月である。

ワルシャワの父ニコラスからの便りをショパンはサンラザール通り5番地で受け取った。

引っ越したことをショパンはワルシャワの家族に報告していた、その返事であった。

ニコラスの便りによると、姉のルドヴィカが、ショパンにとっては結婚詐欺師であるヴォジンスキ家と今も付き合っているというのだ。

ヴォジンスキ家とは、スカルベックの借家にショパン一家が住んでいた頃からの長い付き合いで、お互いに嫌いであっても腐れ縁のような関係が続いていた。

そして、ショパンはニコラスに嘘の報告をしていた。

「身体はノアンで元気になった。この冬は元気で過ごせると思う。引っ越した理由はアパルトマンが寒いから…」

ショパンの言っていることはすべてが嘘だった。

ショパンはノアンでドラクロアに自分が置かれた孤独と友人マッシンスキを失った悲しみの話をしたに違いない。ドラクロアは厄介なことになる前にショパンに引っ越したほうがいいと助言したのであろう。ドラクロアの描いたショパンの横顔は悲しみを帯びている。

ショパンはニコラスにサンドの事も詳しく話していなかった。そして、サンドは9番地に引っ越したこともショパンは説明しなかった、いや、サンドも近くに引っ越したということすらショパンは親には説明したくなかったのだ。

誠実で道徳を重んじてきたショパン家の父ニコラスに、サンドとの関係はショパンは簡単には説明ができなかった。しかも、ショパンは母ユスティナにお金を返す当てもない・・・

やましい生活態度と堕落を父ニコラスに知られたくなかったショパンだった。

そして、父ニコラスはリストとの友情の事を心配していた。

「リストと晩餐会の時、会ったそうだね。リストが高慢に自慢話をして、お前はさぞかし嫌であったであろう。しかし、お前はリストと友情が壊れているにも関わらず、お前は友情があるかのように正しい振舞をしたのだね。」このようなことを息子フレデリックに言い、息子を労ったニコラスだった。

そして、ニコラスは続けて話した。「かつての友が音楽のうえでライバルであることは良いことだが、ベートーヴェン記念委員会にフレデリックを押しのけて入ったリストがベートーヴェン委員会からということにして、お前にベートーヴェン記念祭の招待状を送りつけてきたことに対して、お前がリストを無視したことはお父さんは当然だと思うよ。」

ショパンはベートーヴェン記念碑建設基金募集のために企画された「ベートーヴェン記念アルバム」に掲載する作品を依頼され、前奏曲45を提供したことがあった。それを嗅ぎつけたリストはショパンが委員会の一員になるはずだったところを、シューマンとクララに取り入ってショパンを入れないように裏工作をしたのだ。だから、父ニコラスはこのようなことは、正当なライバルの競争ではなく道理に反していると言ったのだ。

そして、ヴォジンスキ家のアント二イがショパンが言うには娼婦ロゼール譲と付き合っていたが、アント二イはロゼールを捨てたのだ。そして、アント二イはポーランドに帰り別の女性と結婚したが、その相手がルドヴィカの話によると、フレデリックとマリアの結婚詐欺のヴォジンスキ家への報いが来たと、ニコラスに話した。そして、ニコラスがそのことをフレデリックに伝えた。ショパンはフォンタナがいなくなって以来、仕方がなく弟子ロゼールに校訂を手伝わせていた。

ベートーヴェンの記念碑は、ボンのミュンスタープラッツと呼ばれる大聖堂広場の北西の位置に建っている。作曲家の生誕75周年を記念して1845年8月12日に公開された。

建設基金の収益はフランスの拠出金は合計で425フラン未満だった。リスト自身の個人的な寄付は1万フラン以上だったと言われている。1841年4月25日にプレイエルホールで演奏会をショパンは開いたが2000フランの収益だった。その後、リストはショパンの風刺評論をシューマンのガセット・ミュージカルに掲載したため、ショパンとの友情が壊れた。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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