F.CHOPIN、サンドの詩人ボードレールへの挑発

1842年の11月、ショパンの弟子のカールの父親ヨーゼフは、ヨーゼフの両親が住むハンガリーへカールのことを頻繁に自慢げに報告するようになる。

「私たちはサンドのイブニングパーティーに出席しました。カールと歌手ポーリーヌ・ヴァルドが演奏しました。…ショパンはとても元気で、喜んでいました。

サンドやポーリーヌ、その他の夫人にキスにキス攻めにされたカールでした。」

少年カールは娼婦サンドやポーリーヌ夫人などに気に入られ、夜のパーティーの席の呼び物だった。カール少年はわずか13歳、大人の夜中の社交の席で失敗を許されず疲れていた。

(カール少年はこの2年後亡くなる。)

この頃、ショパンは煩わしい夜会の席で夫人たちのご機嫌を取る役回りをカールに代役させていた。そうして、ショパンは自分の命が縮む思いから免れることが出来た。ショパンが断ることの代わりをさせて収入を得ることを考えたのはサンドであった。

サンドはパリでサンラザール通りに引っ越したことを、詩人のシャルル・ボードレールに伝えた。サンドは、ショパンが自分の思い通りにならなくなってきたことや、自分自身の創作活動のネタを探していた。次なるターゲットはショパンより10歳若いボードレールだった。

サンドは、挑発的な文章でボードレールの気を引いた。

「・・・私たちはビリヤードも始めました。

ビリーヤードの台を月に20フランで借りているのです。この暗いパリの応接室で私達の友好的な…私達はノアンのような生活をしています。

私達にノアンでの田舎の生活のような空気を与えてくれてくれているのは、

マルリアニ夫人が私と同じ広場に住んでいるという事実です。…」

ショパンとサンドは5番地と9番地で別々に住んでいたが、スペイン領事のマルリアニ夫人の住む広場とほぼ同じ場所む羽目になった。

サンドが言うには、広いドルレアンの中庭から外へ出ることなく生活できるというのだ。サンドだけでなく、マルリアニ夫人も近くでショパンを監視するようになった。

そのため、ショパンは、マルリアニ夫人の7番地の家でサンドと食事をすることになった。

「私達はショパンと一緒の台所を持つ考えを持っていましたが、マルリアニ夫人の家で食べればお金が浮くのです。

それは私たちを楽しませ、私たち一人一人が自分自身を維持するためにより間接的に保証するための一種の社会主義コミュニティの仮想の自由である。」サンドは、見せかけの自由を装っていることをボードレールに話した。

ショパンの監視役はサンドとマルリアニの二人になった。

ショパンはポーランド人の使用人を雇っていたが必要なくなり、普通の人との繋がりが益々絶たれていった。ショパンはサンドの家とマルリアニの家を表通りには出ないで中庭抜けて行ったり来たりするだけで、閉鎖的な暮らしになって行った。

ショパンには相手にされないサンドは退屈な生活から逃れ自分の執筆活動のネタを探して男を物色することには事欠かないサンドだった。サンドと関係があった男はなぜだか早死にしている。

ボードレールはこの時21歳だった。1839年からバルザックに弟子入りしていたボードレールは、バルザックからサンドのノアンの館での自慢話を聞いていた。貧乏でやっていけなくなっていたボードレール青年はサンドの芸術家の仲間入りがしたかった。そこにサンドの罠が待っていた。

シャルル=ピエール・ボードレール(1821年4月9日 - 1867年8月31日)は、フランスの詩人

ジョゼフ・フランソワ・ボードレールの息子としてパリに生まれる。

生い立ちは、晩婚のジョゼフはボードレールが6歳のときに亡くなり、その1年半後、母カロリーヌは、将来有望な軍人オーピックと再婚する。ボードレールは母の再婚に深く傷つき、生涯エディプス・コンプレックスというべき鬱屈とした感情を抱えることになる。

代表作『悪の華』初版(1857)は近代詩の幕開けを告げる韻文詩集。

詩人の運命の遍歴を5章に渡り綴る。悪病を主要テーマに描いた。

象徴派のヴェルレーヌ、ランボー、マラルメなどの、近代・現代詩人に大きな影響を与えた。

 『悪の華』の初版が出版されると風俗壊乱の罪で罰金刑と、詩6篇の削除が命じられる。

1859年に小冊子として出版さボードレールが『悪の華』の巻頭に評論を書いてもらうこと亡命中のヴィクトル・ユゴー要請した。

1863年42歳で梅毒による体の不調。

1864年43歳のとき負債に追われて4月末にパリからブリュッセルへ逃れた。時折母カロリーヌや後見人を訪れ金を無心する。

1865年、散文詩集『パリの憂鬱』(Petits poèmes en prose, Spleen de Paris)を書き始める。梅毒による病状が進む。

1866年3月ブリュッセル南東のナミュールで倒れる。脳神経の変調が現れ、言葉を失い、ブリュッセルの病院に入院。7月母カロリーヌに付き添われパリに転院。

1867年 46歳で8月31日梅毒で亡くなる。モンパルナス墓地に葬られた。

1869年 散文詩集『パリの憂鬱』出版






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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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