F.CHOPIN、ショパンの社交の綱渡り

1842年も暮れが押し迫っていた。ショパンはフランスの貴族の娘でドイツ人のウーリ夫人に返事を書かねばならなかった。彼女はマンハイムの国立劇場のオペラの監督だったフランスの貴族の娘で、ウィーンでショパンを認めなかったあのカール・ツェルニーに習っていた。ショパンはツェルニーが嫌いなのだ。さて、ショパンはこういう場合にはいつもご令嬢やご夫人に小さな曲を書いて贈りご機嫌を取ってきた。

「楽器製造と出版を手掛けているヨハン・バプティスト・クラーマー商会のビューロー氏へ宛てました原稿と一緒にあなたへのご返事をお届けいたします。

新作をベッセル出版と契約していなければ、あなたに献呈出来たのですが、残念ながらベッセル社と契約済です。

しかしながら、あなたへ≪ワルツ作品70-2≫をあなたにために書きました。

あなたは私からの曲を受け取ったことを公表することを好まれないかと存じ上げまますので、あなたのお手元に留めてお楽しみください。

あなたが素晴らしい解釈をした、あなたのエレガントなモーツァルト、ベートーヴェンとフンメルを数年前にパリで私の耳に鳴り響きました。

あなたの演奏は、壮大なコンサートがたくさんある中で、あなた以外のいくつかのピアノの公演を私は忘れることができます。

私のウーリ夫人へ。敬意と友情を持って、ショパンより」

ショパンはウーリ夫人への献呈は免れるために、ショパンはその代わりに、小品のワルツ作品70-2を送ってご夫人のご機嫌を取ったのである。ショパンは出版の意思はなかった。そのためショパンが生きている間出版されなかった。(ショパンの死から6年後の1855年にユリアン・フォンタナの手でパリで出版された。1852年にはロ短調のワルツと共に『2つの感傷的なワルツ』としてクラクフで出版されていた)

1832年もとうとう終わりである。フェルチ親子はサンドの家に招かれていた。

「今日はジョルジュ・サンドと一緒に食事をしています

ショパンと一緒にマリーテレーズを訪ねました。サンドはカールを異常に可愛がります。

…。私の年齢とカールの関係を考慮して(本当の親子でないことをサンドは知っている)彼女は振る舞います。本名は男爵夫人(既に離婚していたので騙されている)で、

35〜37歳位で、私は彼女に興味があるのだ…。」相変わらずサンドは年齢問わず男好きなのだ。。。

「…私はチェスをショパンとやったことで、天才の一面に触れ親しくなりました。

とてもきれいな家です。入り口から彼女はまっすぐ進むと、ビリヤード台のある広い応接室。マントルピーススタンド、喫煙者が必要とするもの、そして彼女は葉巻を点灯させる最初の人です。」

サンドの家の中をつぶさに観察してリストに報告するフェルチだ。

「彼女が文学的な男と会うことを好むのはここの部屋です。

ハインリッヒ・ハイネがよく来ています。

小さなサンドのサロンでショパンがピアノを弾くというので私は案内されました。」

ショパンとサンドの交友関係を報告。

「ショパンはしばらく鍵盤の上をさまよているかと思うと次の瞬間の突然、目が覚めたかのように演奏が始まり信じられないような手の動きで演奏します。」

ショパンの演奏法はカルクブレンナーに習ったものでも真似でもなく独特だったため弟子も継承はできなかった、ショパンは才能は固有のものと知っていた。その秘密を探って来いとリストに言われていたフェルチだが、見てもわからなかったフェルチはミイラ取りがミイラになり、つい感動したとリストへ報告。それを読んだリストは頭を掻きむしりイライラしたであろう。

「ほぼ完全な暗闇の中で、彼の様々なインスピレーションは我々を落ち着かせた。

私達は電気にかけられたようになり、ある時は、我々を真っ暗闇の底へ突き落されるのです。」完全にフェルチはショパンとチェスをし親しくなり、そして、その部屋の雰囲気やショパンの育ちのよさのもてなしに飲み込まれ、ショパンの音楽に制覇されていた。

「ショパンは姿を消すときがあり、サンドは不安になり使用人にショパンがどうしているか尋ねます」

サンドはショパンの監視役なので、ショパンが行方をくらませたらマルリアニ夫人からどんなおとがめがあるかわからないのだ。サンドの心配の仕方が普通でないことを報告するフェルチだった。

そして、「ショパンの人物の物まねの才能に驚かされる。」ショパンは子供の頃から、王様や伯爵のご機嫌取にうんざりしていた。そして、それが人を観察することが習慣になるほど人間観察が長けることに繋がっていた。ショパンは権力者の物まねをしたのだ。

「ショパンは、滑稽な人物を陽気に演じたかと思うと、突然姿を晦まし、また戻ってきたかと思うと、誰だかわからぬほど変装して現れたのです…」ショパン、変装する衣装があったのだ・・・。ショパンはかつてはオペラを目指していた、オペラ鑑賞で培った演技力はお手の物だったであろう…。

ショパンは権力者のパトロンが付いているフェルチのご機嫌をあの手この手で取った。ショパンの人付き合いは綱渡りなのだ。フレデリックよ、これもワルシャワの家族のためなのか。。。いつもなら連絡を取り合うころである。1年の終わりである…父ニコラスと母ユスティナがワルシャワで嬉しい知らせを待っているというのに。

ヨハン・バプティスト・クラーマー ( 1771年2月24日 マンハイム生 - 1858年4月16日 ケンジントン) ピアニスト 作曲家

クラーマーは19世紀のピアニストの一人。ピアノ教育家として名高く、イギリスのヴィクトリア女王は彼の出現に熱狂したと伝えられている。

J・B・クラーマー& Co.(J. B. Cramer & Co.)はロンドンにかつて存在した楽器製造、楽譜出版、音楽販売業者である。1824年にヨハン・バプティスト・クラーマーによって創業された。ボンド・ストリートにあった建物は1964年に会社がケンブル& Co.に買収された時に閉鎖された。

ハンス・ギードー・フォン・ビューロー(1830年1月8日、ドレスデン - 1894年2月12日、カイロ)

ドイツの男爵で指揮者、ピアニスト

有名なドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、ヨハネス・ブラームスを総称して「ドイツ3B」の名づけ親。

9歳でフリードリヒ・ヴィーク(クララ・シューマンの父)にピアノを師事。

ライプツィヒ大学で法律を学ぶ。母親であるビューロウ夫人あてにワーグナーやリストからの彼の音楽の才能についての手紙がよせられた。

ピアノ演奏でフランツ・リストに賞賛された。リストが庇護したワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を初演。

当時、ドイツ・オーストリアの音楽界はワーグナー派、ブラームス派に二分され、ビューローはワーグナー派であった。

1857年、ビューローはリストの娘コジマと結婚、2子を儲ける。

1866年にコジマはワーグナーと同棲したため、1869年にビューローはコジマと別れた。

コジマはその間に、ワーグナー、1865年イゾルデ、1867年エーファ、1869年ジークフリートと3人の子供を生んだ。この後、ビューローはワーグナーから離れた。

ビューローはブラームスとの親交を深め、その作品を取り上げるようになる。ただし、ビューローはワーグナーへの信奉から、コジマの不倫を暗黙のうちに了承していたともいわれる説がある。

1877年にドイツに戻って彼は1880年から1885年にオーケストラの監督をし、ドイツの伝統の象徴ともいえるMeininger Hofkapelleを設立しました。彼は今Johannes BrahmsとJoseph Joachim Raffの音楽に目を向けた。同時に、様々な音楽院で教えながら、彼はWilhelm KempffとArthur Rubinstein、Karl Heinrich Barthを生徒として教えた。彼はまた、1887年から1893 年まで、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の最初の指揮者になった。

1894年彼のキャリアはツアー中にカイロで終えた。彼の葬儀はハンブルクで行われた。



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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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