「私72歳になる。余生も長くない、お前からの便りを読む喜びを、あと2、3通は与えてくれてもよかろう。お前が何をしているか、お前のことだけが私の唯一の生きがいなのだ。」
父ニコラスは、フレデリックの芸術の一番の理解者である。子供の頃から、フレデリックが芸術家として大成することを後押しして来た。フレデリックの友人や交友関係や貴族の有力者の付き合いもすべては、父ニコラスがフレデリックが歩く道の前に用意したニコラスの影の努力によるものであった。
しかし、フレデリックはポーランドを離れてウィーンで初めて家族と
離れたとき、人種差別という壁に初めてぶち当った、その後、ヴォジンスキ家とは、ニコラスが用意しといたようにショパンは子供の頃からスカルベックの家で遊んだことがある幼なじみのマリアと婚約まで辿り着いたものの、ヴォジンスキ家の正体はまさに詐欺師であったため、ショパンは必然的に破局に持ち込んだのだ。
そこからは、サンドという罠にはまって行ったショパンだった。ショパンはサンドがきっかけで、ここで初めて親の交友関係でない人と付き合うようになって行ったのだ。
ニコラスがサンドの存在を知った頃には、既に時遅しであった、ショパンとサンドの関係であった。
ニコラスは、1832年3月に「お前の活躍だけが生きがいである」そうフレデリックに言い、その年の10月には、リストと仲たがいしている理由を息子フレデリックに聞いたニコラスは、「息子の言う通りだ、無理もない。リストの態度はどうであれ、我が息子は正しい」と、ニコラスはフレデリックに伝えた。
愛情深いニコラス、そのあと、フレデリックが公の場で華々しく演奏したという知らせを首を長くして待っていたのだ。
しかし、待てど暮らせど、フレデリックからは父ニコラスが期待していたような知らせは届かなかった。ニコラスは1841年12月2日のフィリップ王の前で演奏した息子フレデリックが褒美を断ったことで何らかの制裁を受けていた。その後は、1842年2月21日プレイエル奏楽堂でベートーヴェン記念碑建設基金募金のための演奏会を開いたのが最後であった。この頃、1841年11月29日にルーマニアからやって来た謎の親子ヨーゼフ・フェルチの子供カールをショパンは特別にレッスンをするようになっていた。ショパンは子供は教えないポリシーであったが借金があったのだ。権力者のパトロンが付いていたカール親子を断れず、やむなくレッスンをした。
カール親子の相手をするようになってから、ショパンとニコラスのやり取りは激減した。
その代わりに、カールの父親フィルチの自慢話が見苦しく続いた。
ショパンが公の場で演奏することもカールが演奏する度に、ショパンの出番は減るというより全くなかった。
父ニコラスの地道な努力で築いた貴族の交友関係、そして、ショパンの努力で集まる名だたる歌手たちも、どこの流れ者かも知れぬフィルチ親子の売名行為によりショパンは人気を奪われてしまった。
フィルチはハンガリー出身のためリストとも友好を深めていたところを見ると、リストから送り込まれてきたショパンの邪魔をするための攻撃であったと言えるのだ。人が努力したことを横取りするところにリストの影が見える。それとも、愛人ダグーが自分のサロンの社交界のお客をサンドに奪われた恨みか。
父ニコラスはフレデリックの演奏以外は聞きたくもないとも言っていた程、息子の才能を信じて愛していた。お前は気前が良すぎるとニコラスは心配をしていたこともあった。つまりは、この状況はニコラスは微塵も嬉しいわけがないのだ。
1843年1月年が明けたというのに、ニコラスとフレデリックの恒例のやり取りがないのだ。
それに比べて、フィルチ親子は絶好調である。
それはそうである、ショパンが長年かけて血と涙で勝ち取って来たコネクションを簡単に横取りしたのだから。
フィルチの手紙は怪しいのだ。ハンガリーの誰とも知れぬ相手に毎回、自分の都合のいいように逐一報告していた。
「 今夜のロスチャイルド家での夜会は、すべての人にとって素晴らしかった。
ラブラッシュ、グリシ、マリオ、ポーリン・ビアードット、ショパン、そしてカールが出演しました。カールは素晴らしい成功を収めました。 約500人の集会の中で数人の女性がカールを撫でまわしてカールを窒息死させました。」(大人の夜会で毎回夫人の餌食になったカールは2年後に亡くなる。)
この夜会の出来事はフィルチからリストの耳に入ったであろう、その頃、2月になって仲たがいをしていたリストから、ショパンに一筆書いた便りが届く。
リストはポーランドのボズナンに来ていたのだ。
かねてよりニコラスがリストがポーランドに来ると話していたのが1841年12月だった。
それから、1年2か月程経ってリストはポーランドに来ていたのだ。ショパンの父ニコラスに当然のことながら会ったのであろう。
ニコラスが息子のためにリストをもてなしたのであろう。
「レルシュタープのことで僕は仲介に入るつもりはない。
私の親愛なる古い友人。レルシュタープ はあまりにも著名だ。君は育ちがよすぎるのだ。
だから、君たちは上手く行かないのだ。」
リストはレルシュタープが悪質なショパンへの評論を書いた時のことを話しているのだ。
今度パリへ行こうと思っているレルシュタープがパリで高名になったショパンに謝りたいと思っているというのだ。けれど、それは、ショパンへ本当に詫びる気持ちではなく、レルシュタープ自身がパリで活動しやすくするための根回しのようなものだ。
そして、それをリストに頼んでいるのであるが、リストもショパンと仲たがいしていたが
、レルシュタープにかこつけてとやかく言って来たリストであった。
そして、それがポーランドからというのだから、ショパンにはさぞや不愉快であったに違いないのだ。
「君は育ちが好すぎる」というリストの言葉…ショパンの家族に興味があったのだあろう、リストは早く父を亡くし苦労をしてきたというショパンとは全く育ちが違うところに、リストの隠されたショパンへの嫉みが潜んでいた。
ルイジ・ラブラシュ(1794年12月6日 - 1858年1月23日)
フランスとアイルランドの祖先のイタリアのオペラ歌手。
巧妙な演技力で有名だった。Don Giovanniの Leporelloは、彼の代表的な役でした。
フランスのマルセイユ出身のNicolas Lablacheの息子、母親はナポリでアイルランド人。彼は1806年からナポリのConservatorio dellaPietàde 'Turchiniで教育を受けた。
彼の父親であるNicolas Lablacheはフランスの商人で、そして彼の母親はアイルランド系。彼の両親は革命の初めの1791年に移住し、ナポリに定住しました。彼は最初バイオリンとコントラバスを学んだ。
1827年、ベートーヴェンの葬儀でモーツァルトのレクイエムを歌った。
では1836年、ビクトリア女王の歌の家庭教師になる。
1843年、陛下の劇場テアトル - イタリアでドン・パスクアーレの初演の主役でした。
1849年、フレデリック・ショパン葬儀で、モーツァルトのレクイエムをポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドと歌った。
1857年に引退し、1858年1月23日にナポリで亡くなりました。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
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