ショパンはフォンタナがアメリカへ行ってしまった1841年11月から、≪幻想曲作品49≫以降からは作曲の校訂を頼める適任者がいないため、自分で面倒な写しをしなくてはならなかった。
1843年ノアンは10月の初めである。
銀行家のレオは、(レオはドイツ系の裕福なユダヤ人1817年にパリに定住し、メンデルスゾーン銀行の会計士を務めていた。1824年に自身の銀行をパリで設立した。レオとメンデルスゾーンの親は古い仲間であった。)ライプチッヒ音楽院をメンデルスゾーンと一緒に設立し、モシェレスを講師として就職させたのであった。(モシェレスとレオは1821年からの仲間であった)
この、仲間にとってショパンは煙たい存在であった。
メンデルスゾーンの親は銀行家でモシェレスも裕福な家の出であった。それに比べて、ショパンは貧乏だった…。
1835年の頃のことであった。ショパンはメンデルスゾーンに「一緒に音楽を創ってくれないか」と、誘われた当時、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者であった、メンデルスゾーンの誘いを断れなかったことがあった。その時、ショパンはメンデルスゾーンとメンデルスゾーンの姉にひどい目に遭わされたのだ。
【ブログ記事 2019.02.21 14:26 ショパン、ライプツィヒで悪夢の日
2019.02.22 16:27 ショパン、2か月半に及ぶ旅先で、そしてパリへ戻る】
1843年10月のノアンで、レオへの返事を書いた同じ日に(ショパンの今までの行動から推測すると、同じ日に書くことが多かった)今度はパリのグシマーワへ宛てて原稿をライプチッヒのブライトコップフ・ウント・ヘンテルへ出してもらうことを頼んだショパンだった。
1842年12月から原稿は送らず、金額の交渉に当たったが、ブライトコップフ・ウント・ヘンテルから返事が来なかったため、ショパンはこの時、バラード4番作品52、英雄ポロネーズ作品53、スケルツォ作品54、の原稿をまとめてブライトコップフ・ウント・ヘンテルへ郵送することをグシマーワに頼んだ。
いつものパリのブルス広場のポストから送ることを指定したショパンだが、万が一原稿が失うようなことがないように重ねて頼んだ。「僕の原稿は大した価値はないが、もしも、失った場合は恐怖の大仕事になるからです。」
ショパンは自分の原稿の事をそうグシマーワに話した。
ショパンはフォンタナの時のように、出版の交渉の愚痴や本心をあれこれと正直に話す相手がいなくなってしまった。
グシマーワへの頼みは、ただただ大事な郵便物として必ずや送ってくださいと書くのがやっとであった。ショパンは原稿の写しは気が狂いそうな仕事であった。フォンタナだけでは、
とても間に合わなくなるほど、1841年のころは曲の規模も大きくなっていたために、必然的に労力が足りなくなっていた。フォンタナには、もう一人フォンタナの助手を見つけるようにショパンは指示していたのだった。しかし、結果的にショパンが嫌っていた弟子のロゼールしかみつからなかったようだ。
グシマーワへの原稿の送付の依頼の便りのついでに、サンドのことをショパンは書いた。
グシマーワはサンドと実は不倫の仲である、ショパンはグシマーワへサンドの様子を話した。
「ノアンの館の女王(サンド)の健康状態があまり良くありません。
彼女は、足をひきずって出来る限り頑張っているが、広いノアンの館では、いつ彼女に会えるかわからない程です。ここの天気は晴れです。
パリでの生活はとても高価なので、私たちは年末にしかパリに戻れません。」
ショパンとサンドは、貧乏なことを隠して、パリでは金持ちと付き合うために派手に贅沢な暮らしを見栄を張って装っていた。パリでは、高価な馬車や使用人、そして、高価な流行りの衣装を身にまとうことなどなど。しかし、ノアンでは馬ではなく、お金がかからないロバを借りて、モーリスが使い古したビロードの鞍にまたがり、ショパンは田舎のブラジルのカーボーイのようなスタイルでお客が来ない日は、サンドとサンドの親戚へロバで食料を貰いに行っていた。
ショパンはサンドのことをグシマーワへ報告したあと、続けて書いた。
「あなたはホテルを出るのですね。あなたの幸運を僕は祈っています。」
グシマーワはパリで妻と別居してホテル暮らしをしていた。
物価の高いパリでホテル代を支払えなくなったグシマーワはホテルを出ることになった。
その後、グシマーワはいずれは破産することになるのだ。サンドと付き合う男は、なぜか皆、破産するのだ…。ショパンも、グシマーワに世話になっても、グシマーワに払う金はなかったのだ…。
ノアンの滞在がながくなる本当の理由は、借金の取り立てから逃れるためであった。
当時、パリでは破産すると警察に投獄されたのだ、そのため、パリでの借金はパリでしか逮捕ができなかったため、破産すると郊外へ逃れ、パリに住んでいるふりをする芸術家が後を絶たなかった。
ショパンとサンドも夏の避暑どころか、ノアン滞在が長くなっていた。
「僕は、数日前にクルーズ県へ馬車でモーリスと一緒に行きました。モーリスは
風景をスケッチしていました。
僕たちは地元の隣近所の人々と友好的にこの遠足に行き大成功でした。
僕たちが、ノアンに戻るとサンドは体調が悪くなり、彼女は働いていません。
彼女は悩んでいます。」
ショパンのクルーズ県の小旅行は、銀行家レオには、一人旅であったかのように書いていたショパンだったが、(ショパンは一人旅はしたことがない)実は、サンドが行けない代わりに、サンドの息子モーリス、そして監視員も一緒にサンドの代わりにの付き添いが何人もいた旅であった。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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