F.CHOPIN、サンドとマルリアニの間を行ったり来たり、そして、銀行家レオとのやり取り

フォンタナがパリにいなくなって以来、ショパンは出版の交渉を任せられる秘書がいないため、ノアンで隠れるように仕事をしながらパリにいるかのように出版の交渉が郵便物だけですることが出来なくなってきた。パリの喧騒から離れてノアンでゆっくり作曲に専念ばかりもしていられず、夏のノアンからパリまで思い立ったかのように出向いて、自分で出版の交渉に当たらなければならなかった。

サンドは、使用人とパリにいるマルリアニ夫人にショパンがパリに到着する予定時刻と、ショパンの部屋の鍵を開けておくことと、換気と温かいお湯を用意しておくことを頼んだ。夏の間はパリでのショパンとサンドの使用人は雇っていないのである。ホテル住まいのような待遇は、お金を払っていなくても、いままでは、亡くなった友人マッシンスキや秘書で友人のフォンタナが友情でショパンの出世払いということにして、何でもやってくれていたが、これからは、生活の雑用の厄介なことはホテルでもなければ誰もやってはくれないのだ。

ショパンとサンドにお金の余裕など全くなかった。背に腹は代えられないふたりは、フィルチ親子を売り出すという、うまい話しに便乗したものの、借金があるふたりはノアンへの行きかえりの運賃程度にしかならなかった。

サンドは、恥も外聞もないため、マルリアニ夫人とショパンを監視するという名目で、ホテルの部屋係のようなことをマルリアニに頼んだが、実際には、その厄介なことはマルリアニ夫人の夫(パリのスペイン領事)の弟のエンリコがショパンの部屋に入って、ショパンの留守中にあれこれ嗅ぎまわっていたのであった。

そして、門番にショパンの出入りや誰が訪ねてこないかを、しっかり監視するよにエンリコから門番に命令するようにマルリアニを通じて指示したサンドであった。

ショパンは予定通りパリに到着したことを、サンドに宛てて直ぐに報告書を書かねばならなかった。

マルリアニ夫人に促され、サンドへ一筆書いたショパンだった。

「ええと、私は11時に到着し、マルリアニ夫人のところに直行しました。

私たちはあなたに手紙を書いています。 木曜日の真夜中にソランジュ(サンドの娘)は到着します。金曜日または土曜日も座席がありませんでした。

私たちにとって遅すぎる手配でした。ご想像のとおり、私は戻りたい気分です。

私は木曜日か金曜日に戻る義務があります。 明日また書きます。

あなたの非常に謙虚なしもべ、ショパン」

ショパンはパリに判で押したかのように予定時刻に到着し、サンドのご機嫌を取りながら、マルリアニ夫人とその義理の弟の監視も加わったため、パリとノアンどちらも息を抜くところがなかった。

ショパンが一時的にパリに戻ったのには理由があった。勿論、出版の交渉もあったが、サンドと娘ソランジュは折り合いが悪い親子で、ソランジュはサンドの言うことは聞かないため、サンドは手を焼いていた。それで、ソランジュはショパンの言うことなら聞くため、寄宿学校にいるソランジュを馬車に乗せノアン連れて帰るようにサンドにショパンは頼まれていたのであった・・・。


10月になっても、ショパンとサンドはまだノアンに滞在していた。

長い滞在中に、ショパンはノアンから80㎞ほど離れたクルーズ県へ馬車で小旅行に行った。

「私はたった数日の小旅行から帰ってきたところです。

クルーズはとても絵に描いたような所ですが、かなり疲れました。

イグナーツ・モシェレスの家族が、あなたの家にお見えになられていると聞き、私はとても嬉しかったです。ご存知のように私はモシェレスを愛して称賛しております。

あなたは誰よりもよく理解できるでしょう。」

ショパンはノアンからパリにいる銀行家のレオにそう返事を書いた。

ショパンは銀行家のレオに借金があった。ショパンは大事な社交のひとつである銀行家のレオからの招待をノアンからパリは遠いという理由で断ってしまった。

ショパンが断るのも無理はなかった、この年、ショパンを死にそうな目に遭わせた、あのメンデルスゾーンがライプツィヒに音楽院を設立したのだ。そして、メンデルスゾーンは、友人を同僚としてモシェレスの席を用意したのだった。そこで、モシェレスはメンデルスゾーンのゴーストライターを死ぬ思いで引き受けたことがあったショパンを押しのけて、安定した職の席に居座ったのであった。

そのため、モシェレスの顔を見るとメンデルスゾーンの顔が浮かんでしまうショパンにしてみたら、モシェレス夫妻の幸せそうな顔など見たくもないのである。そのあと、レオへの返事には、話題を変えたショパンは、「歌手のポーリーヌは相変わらずノアンに訪れてもサンドと何をしていたのか、2、3週間もの滞在中にポーリーヌは一度も歌を歌った形跡がないのだ」と、ショパンは銀行家のレオに報告した。

ポーリーヌは、この年の1843年から、 ロシアのサンクトペテルブルクのオペラ座に客演していた。つまりは、ショパンにとっては怪しい人間であるのだ。そのポーリーヌが歌の練習も一切せずノアンでサンドと毎日何やら親密に話をしているというのだ。

サンドは、戯曲で失敗して負債を抱えていたため、いつも何かネタがないか嗅ぎまわっていた。そして、この年、サンドが出来上がった小説はポーリーヌがヒロインの『コンスエロ』であったのだ。

ショパンにとって、もはや誰を信用していいのか…。

ショパンは銀行家レオの自宅のあるサントノーレの番地がわからず、

リセ・ルイ=ル=グラン高校がある、学生通りのルイ=ル=グラン街へ宛てで郵便を出した。そして、「あなたは有名な方だから住所が間違っていても以前も届いたので、届けてもらえると思います」と、付け加えて書いたショパンだった。

ショパンは、この年、公開演奏もなく、大事な作曲もだんだんと縮小していた。

そして、いつまでも子供ではないだんだんと成長するサンドの息子と娘の問題を抱え始めたサンド一家のいさかいにショパンまでもが巻き込まれていくことになるのである。

アイザックイグナーツ・モシェレス(1794 年5月23日 - 1870年3月10日)

プラハで裕福なドイツ語を話すユダヤ人の商人の家族に生まれた。彼のファーストネームはもともとアイザックでした。彼の父親はギターを弾いた。

1843年フェリックス・メンデルスゾーンの招きで音楽院で教えた。

モシェレスの弟子は、フェリックス・メンデルスゾーン、ズデニェク・フィビフ、タールベルク。

モシェレスは最後にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のリハーサルの9日後、1870年3月10日にライプツィヒで亡くなった。



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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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